48、もうヤダ!!
突然、情けない悲鳴があたしの耳朶を打った。
それはあたしの喉から勝手に出て行った声だったのだけど、一瞬そうは認識できなかった。 鼓膜を揺らしてそのまま耳に張り付くほど感じの悪い声。
全身を衝撃が襲い、追いかけるように痛みが脳天を貫いたのは、それからふた呼吸も後だった。
「美久ちゃん!」
怜さんの声が研究室の天井を震わせる。
床に組み伏せられたまま、力が入らなくなった。 電気ショックのようなものを浴びせられたようだ。
そんなあたしを、上から押さえ込んでいる美貌の魔術師は、大好きなウィズの顔に、彼ではない者の表情を宿していた。
「美久ちゃん!」
「朝香先生、落ち着けって」
何やらガタガタやっている教授連を無視して、「くだん」のウィズはじっとあたしを見ている。
「こんなこと……しなくても……こわくないのに」
痺れて動きにくくなった口を持て余しながら、相手の顔を見る。
「あたしは……あなたに、こわいこと……しないよ?」
あたしは思いのほか冷静だった。 抵抗しない、と決めた時から、不思議なくらい頭の中が冴えて来たのだ。 そりゃ怖いことは怖いのだけど、中身はともかく、触れ合っている体はウィズの物なのだから、これは危険ではないのだと自分を暗示にかけようと頑張ってみる。
同時にあたしは、ウィズの瞳を覗き込んで、くだんが今何を望んでいるのかを探ろうとしていた。
姫神教授は、くだんを野獣と同じように考えてるみたいだけど、あたしは違うと思う。 少なくとも爺ちゃんは、妖怪や獣とは違ってた。 あんなに人間離れした生活をさせられていたのに、未発達な子供くらいの人間らしさを持っていた。 そしてウィズの夢の中で、彼の弱点を理解する知能があった。
なのに、今、いきなり教授たちやあたしを攻撃したのは、彼が獣や妖怪だからじゃない。
よく考えればわかるじゃないか。 彼はそうやって扱われていたのだ。 近づく前にまずスタンガンで動けないくらいにされて、それから一方的に「お願い」を聞くことを強要されていた。
小さい頃からそんなふうにしか、人と接してこなかったんだ。
だから、この扱いは、彼にとっては常識ってわけだ。
「こわい?」
ウィズの目を見据えたまま、小さな声で聞いてみた。 ギラついていた目の光が、ふっと暗くなる。
「ごめん、そりゃ怖いよね。 へんなとこ連れてきちゃって、知らない白衣の先生ばっかりだもんね。 でも、大丈夫よ、誰も何にもしないよ。 欲しい物があったら、言ってくれたらいいんだよ」
「いらない」
声のトーンは低かったが、きっぱりと返事があった。
「パンは持ってくる。 自分で持ってくる」
「そうか、取ってこれるんだ。 便利な力ね」
「怖くもない」
「ほんと?」
「何考えてるか、わかる。 怖くない」
人の頭の中が読めるから、害意がないのは知っている、という意味だろう。
不意に、施設で出会った子供たちの表情を思い出した。
せいくんの目。
虐待されて運び込まれて来た時の子供たちは、凍りついたような表情のない目をしているのだけど、しばらく施設で世話をしてもらって、リラックスしてくると豹変する。 ギラギラした目をして職員に掴みかかったりするようになる。
大事にしているものをめちゃめちゃに壊してしまったり、わざと言われたことの反対をやったり、とにかく叱られるようにイラつかせるように、周囲を誘導しようとするのだ。
今の魔術師の目の中には、彼らと同じ光が宿っていた。
「ねえ、教えて欲しいことがあるの」
押さえつけられたままの格好で、くだんの目を覗き込みながら切り出した。
「ウィズのお母さんが、夢の中に出てきたわね。 彼女は今、何をしてるの」
「てんにまします」
「え?」
「……れらがちちよ」
一瞬、天国にいると言われたかと思ったけど、そうじゃなかった。 彼の口から出たのは、お祈りの言葉だったのだ。
天にまします 我らが父よ
願わくは 御名の尊まれんことを 御国の来らん事を
御旨の 天に行わるるごとく 地にも行われんことを
我らの日用の糧を 今日我らに与え給え
我らを試みに引き賜わざれ 我らを悪より救い給え
「そ、それってキリスト教のお祈りね。 それがお母さんと、どうつながるの」
息せき切って質問したけど、言葉がわかりにくかったのか、くだん・ウィズは反応しなかった。 その代わり、彼の口から思いがけない声が流れ出てきたのだ。
子守唄だった。
あの時「おかあさん」と呼ばれた女性が歌っていた歌。 そして、以前レイミせんせが、あやめちゃんの治療の時に歌ったあの子守唄!!
固唾を飲んで見守っていた教授陣の中から動揺の声が上がった。 怜さんが、突然棒のように倒れて床に転がったのだ。
「朝香先生!」
「しっかりしろ。 頭打ったか?」
「おおい。 聞こえますか!」
怜さんは意識を失っていた。 床に寝ているあたしからは、駆けつけて群がる教授たちの白衣のおしりしか見えなかったけど、相沢教授が他の連中を指揮して高速で診察し、担架を運ばせたらしかった。
その喧騒の中で響いた相沢教授の言葉に、あたしは息を飲んだ。
「姫神教授、出、出ました。 レイミ先生です!」
「やった!」
飛び起きようとしたけど、体はまだ痺れが残っていて動かなかった。
「どういうこと?」
あたしの質問だけが虚しく宙に舞い、担架のキャスターの音と一緒に、教授たちはどやどやと部屋の外に出て行ってしまった。
「やったって何? 先生たちみんな、レイミせんせの復活のこと知ってたの?
だって怜さんは、仕事休んでまでそのこと隠してたみたいなのに……」
「ワケはあとで話す。 とにかく君は、そいつの相手をしてやってくれ。
とりあえずやることは、とことん付き合うことだ。 とことん、そいつの気が済むようにだぞ!」
姫神教授が、例によって無責任極まりない口調で言い放ち、部屋の外に出て行った。
ついでに床に転がって唸っていたハッちゃんも、学生が手を貸して担ぎ出してしまった。
取り残されたのは、あたしとくだん・ウィズのふたりだけ。
そのウィズは、あたしを抱っこしたまま、やけに満足そうな顔になった。 人に盗られる心配がなくなったからだろう。
「ええと」
話しかけると、相手はビクンと緊張する。 平気で抱いて引きずり回してるくせに、会話となると不安になるらしい。
「あなた、何かやりたいことがある? あれば一緒に、って、きゃあ!」
待って、いきなり押し倒すってそれは反則。
やめて、もうこれ以上服破らないでよ、帰れなくなるじゃないの。
わかった脱ぐから。 あなたはウィズだと思うことにしたからもう、もう、どうにでもなれって言うのよ。 ほら、脱いだわよ。 どうしたいの?
あッ、意外と容赦なく触るのね。 そ、そこまで。 あ、やだ、そんな。 やだ……お、思ったより
……あ、あ、あ。
「ふう」
「……ふうって……マジ?」
「はあ」
「お、終わったの?」
理性の崩壊した表情で破顔するウィズを見て、できることなら忘れたいと思った。 そう、彼はあろう事か、あたしを目の前にして、結局一人でコトを終えてしまったのだ。 あたしってほとんど人間ポルノ雑誌状態。
これはひどい。 いきなりヤられちゃうのもウィズに対して申し訳ないと思っていたけど、どうにかしてくれ仙人様。
「ほんとに……ほんっとに、ウィズじゃなくなってしまったのねえ」
口に出して言うと、もうダメだった。 涙腺の堰がブチンと音を立てて飛んでいくのがわかった。
「ウィズがいなくなっちゃった」
あたしは服を着るのも忘れて泣き出してしまった。
もうだめだ。 今度こそもうおしまいなんだ。 あたしの行く場所は、世界中にどこにもない。
「もうやだあああああ!」
思い切り大声を出して泣いたら、さすがのくだんも怯んだような顔をした。
「ダイジ、ダイジ」
ナデナデしてくれる手を振り飛ばして泣いていたら、いつの間にか服を着ていた。 それもどこから持ってきたんだか、ものすごくきらびやかなロングドレスだ。
「いらない、服なんか」
宝石のついた豪華なケープを放り出して泣き続けた。
「ダイジ、ダイジ」
いつの間にかケーキに囲まれていた。
デスクの上を覆い尽くしたチョコレートやホイップクリーム。 甘い香りを漂わせる可愛いケーキが一面に敷きつめられた部屋。
「いらない、お菓子なんか」
差し出された皿を拒んで泣き続けた。
「ダイジ、ダイジ」
いつの間にか空を飛んでいた。 夢のように澄んだ青空の下には、目の覚めるほど青い海。
「キレイ、キレイ」
「いらない、景色なんか」
顔を覆って更に泣いた。
「あなたになんかわかんない。 ほかの誰にもわかんないわよ。 ウィズがいなきゃダメなの。
ウィズを返して。 返してよ!」
くだんの腕を掴んで怒鳴りつけた。 その腕はあたしの大好きなウィズのものだったけど、そのぬくもりはあたしの心に届かない他人の物になってしまった。 もうあたしの生きてる意味はないと思った。
「返しなさいよ! 馬鹿!」
大声で罵って、相手の胸をドンドンと握りこぶしで叩いた。
不意に頭上で、張り裂けるような叫び声が上がった。
くだん・ウィズが叫んでいた。 子供のように両目を見開いて、ヒーっと常軌を逸した声を上げ、彼はパニックに陥っていた。
叫びながら、両手でデスクを持ち上げた。 ありえない力で、軽々と宙に舞い上がったデスクが、次の瞬間、風を切ってあたしの上に落ちかかって来た。




