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37、凡人は戸惑うばかり

 あたしという人間は、人よりもちょっと感性がスローモーなんだろう。

 ウィズにもう会わないと言い渡された時、本当にひどいことになったと頭では思った。 でも、その重みが本格的に心の中に落ちてきたのは、それから10日ほども後のことだった。


 それまでは、地面に足をつけている実感がないような、心もとない気分のまま、父や母の言うとおり、真面目に大学に行った。 ウィズに拒絶された時点であたしの希望は凍結されてしまっていたから、周囲のいいなりになることが少しも苦痛ではなかったのだ。 とにかく今までとは違う自分になろうとしていた。 

 勉強も必要以上にやった。 単語や数字で頭の中を埋め続けることが、余計なことを考えないという意味で有効な作戦だったからかもしれない。 


 疎遠になっていた学校の友人との交流も再開したが、それでもなお「ウィザード」に行かなくなったあたしの世界は突然凄まじく狭くなった。

 ウィズだけじゃなく、喜和子ママやベレッタ刑事、他にもそれまで付き合いがあったたくさんの人と顔を合わせなくなった。 そうなってみて初めて、あたしは自分自身の人付き合いのまずさを思い知らされたのだ。

 ほとんどの人と、「ウィザード」に行く以外の方法で連絡を取ることができない状態だった。 怜さんに至っては、電話番号も知らなかったのだ。 レイミせんせに戻ってしまった彼がその後どうなったのかわからなかったので、気になって大学病院に電話をかけたが、病欠ということで繋がらなかった。 


 10日めの日曜日、父が家まであたしを迎えに来た。

 「今日から父さんの家に来なさい」

 ああ、そう言えばそんな話をしていたな、と思った。 父の家というのは、もともとあたしたちが3人で暮らしていた家だ。 あたしの頭の中では、その家は母とセットで記憶されていたので、なんだか不思議な気持ちがした。 

 父と暮らすことになったいきさつに違和感はあったが、嫌だとか腹立たしいとか、そう言った生の感情は湧いてこなかった。 ある意味、これは罰なんだと思っていた。 母を大事にしなかった馬鹿娘は、恋人に去られ、これまでの生活を捨てなければ許されないのだと。

 そうしてあたしは、強制されたわけでもないのに、無抵抗な囚人よりももっと従順に、かつての我が家に戻ってきたのだった。

 


 足を踏み入れた途端、匂いが違う、と思った。

 父は家事をまるでしない人だったので、さぞかし汚れているだろうと思ったのに、以前あたしたちが暮らしていた頃よりもよく片付いて、以前とは違う匂いになっていた。 

 玄関に可愛いけど実用的じゃない小物が増えているのを見て、なんとなく嫌な予感がした。 

 以前と同じじゃないのを知っておいてねと小さく肩をすくめているように見える、下駄箱の上の置物。 猫の顔が付いたスリッパ。 居間のドアノブに下がった小さな鈴。 大して役に立たないこの種のグッズを、母は好きじゃなかったし、父も興味がなかったはずだ。


 「お帰りなさい。 あの……はじめまして、美久ちゃん」

 緊張で固まった顔に無理やり笑みをのっけた細身の女性は、母よりは多少若いかなと思われる年代の人だった。 彼女がお辞儀をしたとたん、部屋の匂いはこの人の香水のせいと気づいた。 


 「速水月子さんだ。 もともとは父さんの部下だった人なんだが、会社をやめてここに来て貰うことにしたんだ」

 父の言い方は、ひと工夫もふた工夫もしてあったが、それがかえってイヤミに思える。 

 そう、要するにこの女性と同棲しているってことだ、あたしたちの思い出のこの家で。

 いつから、なんて質問はする気にもなれない。 母と別れて2年も3年も経ってるわけじゃないのだから。

 

 前日に母が仔細ありげに囁いてみせた理由を理解した。

 「離婚の時に、美久は母さんと暮らすって言ってくれたけど、父さんが引き取りたがっていたのもホントのことなのよ。 でも父さんはあの通り家事なんてできない人だし、一緒にいたら全部美久の負担になってしまうって、私が弁護士さんに説得してもらったの。 まあ、嘘っちゃ嘘だけどね。 

  どっちにしろあなたはもう大人なんだし、断る権利ももちろんあるってこと、覚えておきなさいね」

 どちらかと言うとあけっぴろげな性格の母が、あそこまで抑えた言い方をするところに、事の深刻さが感じられる。 溢れかえる怒りを表に出さないためだろうか、母はこの同棲の事実をあたしに一言も伝えていなかった。


 「父さん、本気で言ってるの?」

 「何がだ」

 「一緒に暮らすって、この3人で暮らすこと?」

 「そうだ。 家事は月子さんがしてくれるから、美久は勉強に専念できるだろう? 何かおかしいか」

 言葉はなかなかうまく出てこなかった。 黙ってテーブルをゴンゴンと叩くと、いやにもどかしい音がした。

 「同じ、クイーンなら、スペードじゃなくたっていいよって、言ってる……」

 「なんだって?」

 散文的なあたしの物言いに、父は明らかに苛立った様子だった。

 「気に入らないなら、はっきりいったらどうなんだ?」

 「今ね、父さんに、この家で、母さんだけトランプのカードみたいに1枚入れ替えて、はいスリーカード揃いました!って言われたような気がしたよ。 あたしはこの家がそんな家になるなら、帰ってくるのは……怖い」


 父と月子さんが息を呑む音がした。 何かが壊れる音だった。

 

 昔のウィズじゃないけど、香水の匂いが鼻について今にも吐きそうな気がした。 

 ここに居るのは父の部下だの恋人だの言う前に「女」という名の生臭い生き物だ。 それをあたしの鼻先に臆面もなく出して来た父こそが、人の心を持たない真のモンスターではないか。

 踏みしめた地面が崩れるような恐怖。 家庭が壊れるというのは、つまりはこういうことなのだった。

 

 頭が爆発しそうなので、家を飛び出してその足でまどかのマンションへ立ち寄った。

 こういう時はいつも、彼女にぶちまけて溜飲を下げてからゆっくり考えをまとめるのがあたしの癖になっている。 一時期居候をしていたので遠慮もないし、合鍵があるから留守でもいいやと、なんの連絡もしないで押しかけたのだが。

 「美久……」

 インターホンに出たまどかの様子がおかしい。 かなりの間があって、

 「いいよ、上がって」

 とドアが開いた。

 「ごめん、何か用事があった?」

 口では謝りながらも、さっさと上がり込んだあたしの足は、リビングに入る手前で止まった。


 ソファクッションに腰掛けている、すっきりした綿シャツ姿の男性。

 「ちょっと! これどういうこと!?」

 病欠のはずの怜さんがここに居るなんて!

 「あ。 もしかしてレイミせんせ……なの?」

 「いや、俺だよ」

 怜さんの声が答えた。

 あたしはいきなりあわててしまった。 だってまどかも怜さんもすっかり落ち着いて、コーヒーを飲みながらひざ掛けなんかふたりで使っていた様子だった。 ガラス製の座卓の上には、やりかけのミニ版オセロ。 どう見ても、こなれたカップルが休日の暇つぶしをしている図だったのだ。


 「こめん! あたし、あの、スグ帰るから!」

 回れ右をするあたしを、まどかが慌てて捕まえる。

 「美久こら、待てって。 ちゃんと話を聞けよ」

 「いや、後でいいよまどか。 邪魔してごめん、出直すから」

 「よくねーだろ!」

 やったね的なあたしの表情を見たまどかが、突然怒り出してあたしの手を振りほどいた。

 「まどかちゃん、いいよ」と、怜さんが止めに入ってくれた。

 「美久ちゃん、まどかちゃんは見かねてここに呼んでくれただけなんだよ。 

  さすがにレミになったままじゃオレ、出勤できねえだろ。 欠勤にして自分のマンションにいたら、相沢教授やらキシン先生やら、わらわら見舞いだか様子見だかに来るもんだから、レミのやつここに逃げ込んだんだ」

 「それ、いつから?」

 「だから9日前くらいか」

 「それからずっとふたりで一緒にいたの? で、怜さんに戻ったのはいつ?」

 「おい!」

 まどかが叫んだ。 ここであたしはようやく、彼女が単に照れているんじゃなくて本気で怒っているのだと気づいたのだ。


 「いいかげんにしろ! 誰のせいでこうなったと思ってるんだ? 全部如月さんと美久のとばっちりじゃないか。 でかしたみたいな言い方やめろよ!」

 「まどか……」

 「如月さん、さっきようやくここに来て、謝って行ったけど、こっちはあの人にさんざん振り回されたんだぞ。 美久も如月さんのことばっかりで自分のことがお留守だし」

 「それはあたしも反省して」 

 「反省したって、あの人は美久にはコントロールできねーだろう!

  俺も今度ばっかりは、お父さんの言うことが正しいと思うぜ。 美久は如月さんと離れるべきだ。 どう考えたって、平凡な人間には乗りこなせない怪物だと思……」

 「まどかちゃんッ」

 怜さんに遮られて、まどかはようやく口をつぐんだ。  

   

 

 降り始めた雨に、体を晒して歩いた。 傘は持っていたけど、そんなものをさすだけ無駄だと思えたのだ。 あたしの心は既に水を吸って、ずっしりと重い。

 マンションに帰ろうとしている自分を、もうひとりの自分が笑った。 母の住むあのマンションも、今はあたしの家ではないじゃないか。 あたしはもうずっとずっと前から、居場所を失った人間だったのだ。


 気がつくと、雨の中にあのランタンの明かりが浮かんでいた。

 「ウィザード」の看板は、夕方の薄闇に溶ける事なく静かにそこにあった。 

 かつてあたしを孤独から救ってくれた場所、一番好きな人と一番大切な時間を過ごした大切な店。

 そこはあたしのものだった。 誰がなんと言おうと、あたしから奪い取ることはできないはず、そんな権利は誰にもないはず。

 

 がころぽん、ころぽんとドアのベルが歌った。

  

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