第2話 A級渡航禁止区域
屋敷を出るまでに、思ったより時間はかからなかった。
正確に言えば、「俺が出る」と言った瞬間から、事は勝手に進み始めた。
メイドが誰かに連絡を取り、使用人たちが一斉に動き出し、俺は半ば流される形で車に乗せられた。
黒塗り。無駄に大きい。窓の外は見えない。
「……俺、普通に外出したいだけなんだけどな」
誰に言うでもなく呟くと、向かいに座るメイドが一瞬だけ目を伏せた。
「今回は、例外的措置です」
「外出禁止じゃなかったのか」
「“国外渡航”に関しては、正式な手続きを踏めば可能です」
「じゃあ最初からそう言ってくれ」
「説明には順序があります」
順序、ね。
この世界では、順序を間違えると命に関わるらしい。
車は都市部へ入った。見慣れた日本の街並みに、似ている。けれど、どこか違う。街頭モニターに流れるニュースの文字。人々の服装に混じる、明らかに人間じゃない影。耳を尖らせた獣人、肌の色が明らかに違う者。
それを誰も気にしていない。
「……慣れって怖いな」
そう呟いたとき、車は大きな建物の前で止まった。
《海外渡航管理署》
無機質な文字。国旗。警備。
政府施設だ。間違いない。
中は拍子抜けするほど普通だった。
受付、待合、番号札。役所そのもの。
俺が知っている“日本”とほとんど変わらない。
ただ一つ違うのは——
俺が通される部屋が、最初から決まっていたことだ。
会議室。
ガラス張り。長机。
向かいに座るのは三人。スーツ姿。年齢はバラバラ。表情は揃っている。
無表情。
「本日はお時間をいただきありがとうございます」
中央の男が淡々と口を開いた。
「海外渡航管理署、特別調整課の者です」
名乗りはあったが、頭に入らない。
役職名だけが妙に引っかかる。
特別調整。
「要件は、帝国への渡航許可申請ですね」
「そうです」
「結論から申し上げますと、今回は許可できません」
早い。
あまりにも早い。
「理由を聞いても?」
「二点あります」
男は感情のない声で続ける。
「一つ。帝国はA級渡航禁止区域であること」
「それは聞いた」
「もう一つ」
男は一拍置いた。
「あなたが帝国で拘束、あるいは行方不明になった場合——
日本政府がどれほどの責任を問われるか、予測が不可能だからです」
俺は一瞬、意味が分からなかった。
「……責任?」
「はい」
「俺、一国民だよな?」
「ええ」
「だったら、海外で何かあっても自己責任じゃないのか?」
三人は、ほんの一瞬だけ視線を交わした。
それから、同じ無表情のまま答える。
「通常は、そうです」
「……通常は?」
「あなたの場合、“通常”の範囲を超えています」
言葉は淡々としているのに、内容だけが重い。
「過去の実績を鑑みるに、あなたは——」
「待ってくれ」
俺は手を上げた。
「その“実績”ってやつ、具体的に何なんだ」
沈黙。
一秒。二秒。
その間に、俺は嫌な予感を確信に変えた。
「……説明できません」
「は?」
「記録は存在します。しかし、開示には制限があります」
「なんで」
「混乱を招くためです」
はっきり言われた。
ぼかしも、遠回しもない。
「あなたが調子に乗り、国民の信頼を損なう可能性もあります」
「……」
「また、国際的に情勢が不安定な現在、
特定個人を過剰に持ち上げることは、外交上の問題にもなります」
つまり——
俺を特別扱いすると、全部が燃える。
「だから表向きは、あなたを“一般市民”として扱う」
「……内心は?」
男は答えなかった。
答えなくても、分かる。
触れたくない。
失いたくない。
でも、自由にさせるのは怖い。
「……帝国が危険なのは分かったよ」
俺は椅子に深く座り直した。
「でもさ、それって吸血鬼が相当やらかしてるってことだろ」
三人の空気が、わずかに張り詰めた。
「本当に吸血鬼は一体どんなことやらかしたら、
国がここまでビビるんだよ⁉」
声を荒げたつもりはない。
素朴な疑問だ。
だが、返ってきたのは事務的な答えだった。
「詳細は、開示対象外です」
「……便利な言葉だな、それ」
「必要な言葉です」
必要、ね。
「じゃあ聞き方を変える」
俺は机に肘をついた。
「帝国が危険なのは分かった。
俺が捕まると面倒なのも分かった。
じゃあどうすればいい?」
三人は、再び視線を交わす。
「……非公式な手段については、我々は関与できません」
「つまり?」
「正式な許可は出せない。
しかし——止める権限も、ありません」
なるほど。
「責任を取れないから許可は出さない。
でも、勝手に行くなら自己責任、ってわけか」
男は、わずかにだけ頷いた。
「……そう解釈していただいて構いません」
メイドが、後ろで小さく息を呑んだ。
「ただし」
男は続ける。
「帝国側があなたの動きを察知した場合、
事態は我々の想定を超える可能性があります」
「それって」
「向こうが、あなたをどう認識しているか——
我々にも、完全には分かっていません」
分かっていないのか。
それとも、分かっているけど言えないのか。
俺は立ち上がった。
「分かった。今日はこれでいい」
三人は何も言わず、頭を下げた。
建物を出た瞬間、空気が軽く感じた。
でも、胸の奥は逆に重い。
「……なあ」
車に戻る途中、俺はメイドに聞いた。
「俺、何したんだと思う?」
彼女は、少し考えてから答えた。
「世界を壊したか、救ったか——
そのどちらか、あるいは両方です」
「最悪じゃん」
「はい」
即答だった。
俺は空を見上げた。
青い。普通の空だ。
でも、その下にある世界は、
俺の知らない形に歪んでいる。
「……行くしかないな、帝国」
メイドは、何も言わなかった。
それが、何よりの答えだった。




