真夜中の手押し信号1
このところ、平和だった。梨郷が一週間くらい顔を見せていないのだ。来ると必ず厄介な怪談話を持ってくるからな。
僕は注文された珈琲を淹れながら、一時の穏やかな時間を過ごしている。
「やっほい」
妙な挨拶にはっとして顔を上げると、目の前に見慣れた顔が。
「田中さん?」
田中露ちゃんの姉、田中庵が立っていた。同じ学校の同級生だ。
「おはよー。いや、こんにちはかな?」
休日土曜日の十時半だから、どっちでもいいんじゃないか?
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
笑顔でいうと、何故か田中さんはぽかんとして、
「え、え? 茅部君だよね!? 何その爽やかスマイル」
今、仕事中な。同級生でも客として対応する。多馬崎は思いっきり素だったけどな。
田中さんはしばらく動揺していたが、すぐに持ち直してカウンターの、いつもの梨郷のお馴染みの席へ。
「あのさ、実はー」
「申し訳ありませんが、ご注文を先にお願いできますか? 今、お冷やをご用意いたしますので」
「えー? ……まぁ、いいっか」
「お待ち下さいませ」
そう言って僕は淹れた珈琲を持ってソファ席の方へ。
戻ってきてから、田中さんの注文を受ける。
「んーとねー。カフェオレのカフェ抜きで」
おい。絶対ふざけてるだろ。
「申し訳ありません、お客様。カフェオレはカフェとオレを混ぜたものではありませんので」
「あ、ごめんごめん。それは知ってるんだけど、要はコーヒーと牛乳じゃない? コーヒーだけ抜いてほしいんだよね」
「……それですと甘味のついたホットミルクになりますが」
「それで大丈夫。よろしく」
最初からそう言えよ……。
「あ、そうだ。梨郷ちゃんから聞いてたんだった」
田中さんはぽんと手を打って、
「営業モードやめてほしいんだけど、ダメかな? 普通に話したいんだ」
「……」
「お願い!」
手を合わせて片目を閉じて見せる田中さん。
うーん。自分なりのポリシーを破りたくはないんだけどな。
「……わかった。僕に用事なのか?」
「あー、その顔安心するよね」
なんなんだ。
「実は今、梨郷ちゃんは季節ハズレのインフルエンザにかかってるんだけど」
「へえ」
それで来ないのか。なるほど。
「あれ? 心配じゃないの?」
「心配? なんで」
「うっわ、薄情だね。仮にも彼女なのに」
その設定、まだ生きてたのか。とりあえず否定しておく。
「それで? だからなんだって?」
「うん、露についてお見舞い行ってきたんだけどね、梨郷ちゃんに頼まれたんだよね。真夜中に変わる手押し信号の謎を茅部君に伝えてほしいって」
「手押し信号?」
問い返しながら思う。また厄介な話を持ってきたんだな、と。
「港衣トンネルわかる?」
「ああ、出るって噂はよく聞く」
例のカーブミラーの三叉路の先だ。
「そのトンネルを抜けた先は下り坂で、さらにそのまた先に十字路があるのね」
トンネルの話じゃないのか。出るって噂なのに、避けられまくってるな。
「十字路か。あのトンネルの道はあんまり通る人いないんじゃなかったか?」
通りやすい新しい道が出来てるからな。十字路の先はニュータウンと呼ばれている。整備されてマンションやら新しい家が建ち初めている場所だ。
「でも、人通りはないわけじゃないでしょ? その十字路は田んぼの真ん中にあって、歩行者信号は手押し、つまりボタンがついてるのね」
「ああ、そうだな」
交通量が少ないからな。基本赤だけど、歩行者が通る時だけ変わるようになっている。
「その歩行者信号が真夜中の人通り皆無の時間に青に変わるらしいの。車で通りかかった人が何人も停められたんだって。歩行者信号が変わると車用の信号は赤になるからさ。でも、誰も横断歩道を歩いてないの。不気味でしょ?」
「……ああ。不気味だな」
自分がドライバーだったらと思うと鳥肌が立つ。
「というわけで、調査開始だね!」
「なんでだよ。僕はあの辺りは通らないし、むしろ家から遠いし。なんのために」
「まぁ、まぁ、梨郷ちゃんの頼みってことで!」
なんかそう言われると気持ちが揺らぐというか……。いつの間にかあいつに情が移ったのかもな。




