第九話 ずぶ濡れで二人きり
おかしな夢を見た。
地図も見ずに当てずっぽうで山を登り、まだ誰の目にも晒されていないような美しい沢を見つけた。時間を忘れて撮影に没頭していると山の日はとうに暮れてしまい、人里に向かって下山しようとしたが、辺りは真っ暗で道もわからない。
半分遭難したような状態でふらふらと歩いていると、木々の向こうに薄ぼんやりした灯りが見えた。どうしてだかその明かりが不意に消えてしまうような気がして、僕はしばらくの間、息を潜めてじっと見つめていた。真っ暗な林の中を命からがら彷徨った僕の目には、あまりに現実感のない灯りだったのだ。
しばらく待ってから恐る恐る近づいてみると、幸いなことにその灯りの源は、小さな集落だった。
僕は灯りの見える手近な家の戸を叩いた。顔を出した老人は闇夜の突然の訪問者に驚いていた様子だったが、そんな怪しい男を暖かく迎え入れてくれた。
後で知ったが、その家は集落の長の家だった。
村の長は穏やかな風貌の白髪の男で、余所者である僕に部屋と食事を振る舞ってくれた。自分が写真家であることを話すと、どういう訳かとても歓迎された。
最新式のドイツ製カメラを持っていた僕は、何日も泊まり込んでシャッターを切り続けた。
のどかな田園と、場違いなほど荘厳な洋館、そして純朴な村人が主な被写体だった。中でも村長の家の娘は美しくも凛々しい女性で、彼女に心を奪われた僕はその姿を何本ものフィルムに収めた。
集落には写真館がなかったのでフィルムの現像ができない。現像と紙焼きに必要な機材を村の青年に買い出しに行ってもらい、僕はあてがわれた洋館の部屋に籠って現像し続けた。
目が覚めると、窓の外は薄曇りの空だった。
頭の片隅に夢の記憶の残滓が残っていた。夢の中でもカメラを構えて女性を撮っている。夢の中の彼女はなぜか雨に似ているような気がした。
そうだ、雨に謝らなくては。
もちろん、論理的に考えて、僕が謝るような状況ではないし、第一彼女が腹を立てているかどうかもわからないけれど、不機嫌な女性の機嫌をとるにはまず謝罪すべし。これは僕の友達の受け売りで、この言葉自体、女性を馬鹿にしているように思えてならないのだけど、そいつの女性遍歴に敬意を表して採用させてもらうことにする。
何事もなかった風を気取って食堂に入ると、雲さんも霧ちゃんもおらず、なぜか雨だけがテーブルについていた。一人でトーストとスクランブルエッグの朝食をとっている。
「おはよう」
いきなり出鼻をくじかれた僕は、それでもなんとか落ち着こうとして椅子に座り、挨拶しながら次の言葉を考える。
「昨日はゴメン」
ちらっと雨の顔を盗み見る。彼女の手は機械的にスプーンですくったスクランブルエッグを口に運んでいるだけで、こちらを見ようともしない。怒っているのだろうか。
「あれからすぐに部屋に戻ったんだけど、もういなかったから、どうしたのかと…」
語尾に向かって声量が二次曲線的に減少する。雨は何も言わないどころか、こちらを見ようともしない。
どうやら僕は雨を怒らせてしまったようだ。最高の被写体を前にして、チャンスは僕の手のひらから白い砂のようにこぼれ落ちていく。
僕はうなだれ両手で頭を抱えてしまった。
「ぶぅーーーーーーーーーーーっ!」
突然、僕の頭にシャワーが降りかかる。
「あははははははははははははははははははははは」
静寂の食堂に狂ったような笑い声が響きわたる。
顔を上げると雨の姿はない。テーブルの下を覗くと、僕にミルクのシャワーを浴びせた雨が、椅子から転げ落ちた姿勢のまま腹を押さえて震えていた。
「やーめーてー! ご飯食べてるのになんで笑わすのー!」
一瞬で怒りが収まったのか、あるいは最初から怒ってなどいなかったのか僕にはまるで判断できなかったが、今日もまた彼女を撮ることを許されたらしい。
ほっと安堵のため息をついた僕の前に、雨と同じトーストとスクランブルエッグが運ばれてきた。
「雲さんと霧ちゃんは?」
「お姉ちゃんは急に役場から呼び出されて出かけて行ったよ。霧ちゃんは登校日」
まだ笑いが収まらないまま雨が椅子に座り直して答える。
今日は雨だけなのか。シチュエーションとして良かったのか悪かったのか。
「ねぇねぇ。裏の森を抜けたところに、ここと同じレンガ造りの離れがあるんだけど、行ってみる?」
ショートパンツにスニーカーを履いた雨が目の前を軽快に歩いていく。森と言っても踏みしめられた道が続いているので、思ったよりも歩きやすい。
割と露出度の高い格好をしている雨の脚は、白いショートパンツに比べてもなお眩しいくらいだった。
「透くん、東京の暮らしってどう? 楽しい?」
突然、彼女が聞いてくる。
食生活のことや住んでる部屋のこと、バイトのこと、大学のこと。次から次へと質問攻めにされるのだけど、どう答えても、ふーん…としか返ってこない。
森に入ると、夏だと言うのにさわやかな空気に包まれる。カメラと2本のレンズ、ストロボだけを入れたバッグは軽く、僕の足は軽快だった。もちろん、手ぶらの雨も。
しばらく歩くと、さぁーっという音とともに雨粒が落ちてきた。さっきまで晴れていたというのに、高原の天気は変わりやすい。引き返すか、どこか雨宿りができるところはないだろうか。
「離れまであと半分くらいかな。このまま行くのが一番濡れずに済むよ」
そういう雨を信じて、すこし早足で森を進む。
雨に連れられて延々森の中を彷徨ったあげくに到着した離れは、なるほどちょっと変わったデザインだった。外壁は赤煉瓦で覆われていて、切妻型の鋭い角度の屋根に黒い瓦が葺かれている。あの屋根に大きな十字架でも乗せたら、そのまま小さな教会ができあがりそうだ。
しかし、そんな外観の様子をじっくりと観察する余裕もなく、僕たちは離れに飛び込んだ。到着するまでの間に雨足はよりいっそう強くなり、雨も僕も頭の上からつま先まで余すところなくずぶ濡れになっていた。
建物の中はしんと静まり返っていて、外で木の葉をたたく雨音だけが聞こえてくる。
厚く垂れ込めた雨雲のせいで、窓の外は夕方のように暗くなっている。突然明かりがつくと、壁のスイッチに人差し指をのばす雨の姿が現れた。髪は濡れて顔に貼りつき、淡いブルーのキャミソールは生地の薄さを効果的にアピールしている。ノーブラだった。
僕が見とれていると、雨はゆっくりとスイッチから手を離し、両腕で自分を抱きしめるようなポーズになって、小さく体を震わせる。
夏とはいえ雨天の高原は肌寒い。濡れた体からは急速に体温が奪われていく。
雨は小走りに奥のドアに消えた。
部屋の中は大きなベッドとソファーが置かれ、白い壁には小型の暖炉、もう一方の壁には小さなキッチンが設えてあった。
しばらくすると雨がバスローブを着て戻ってきた。丈の短い白いバスローブだ。
「風邪ひいちゃうから着替えてね」
大きめなタオルとビニールに包まれたものを僕に投げてよこす。おそらく同じバスローブだろう。
震えるほどでもないけれど寒いのは事実だ。僕は仕方なくTシャツを脱いだ。
ジーンズのベルトを外したところで雨と目が合う。彼女は微笑んでこちらを眺めていた。
「えーと、向こうを向いててくれるかな」
「いいよ」
雨は大人しく従う。
急いでバスローブを羽織ると、バッグの中からカメラを取り出してチェックする。一応、防滴仕様になってはいるけどバッグの濡れ具合を見ると心配だ。タオルでカメラについた水滴を念入りに拭き取る。電源を入れてファインダーを覗く。オートフォーカスも無事に作動した。
部屋を見渡して露出のチェックをする。覗きこむ雨の顔がファインダーに入った。
「もぉー! こんな時に写真撮るのぉ?」
抗議の文句を口にしながら、甘ったるく延ばされたイントネーションは了承の意味を含んでいる。そんなことは考えてはいなかったが、これは撮ってほしいという彼女のサインに違いない。
モードを絞り優先AEにセット。絞りを解放から一段絞り、雨に近づいて睫毛の先端にピントを合わせる。
シャッター。
光量が足りない。
バッグからストロボを取り出し、カメラにつける。発光部を天井に向けた。
モードをマニュアルにセットし、シャッタースピードをシンクロに。
重いシャッター音とともに天井に反射した閃光のシャワーが雨に降り注ぐ。彼女はまるで陸から水中に戻った人魚のように生き生きと舞った。丈の短いバスローブの裾からのぞく太股。襟がはだけて半分露出した肩と鎖骨が、今でもまだ濡れたままのように反射率が高い。
カメラの前でポーズをとる雨の表情は、昨日と同じように恍惚としたものに変化していく。潤んだ瞳は伏せた瞼によって隠され、頬に薄紅がさして、次第に口角が上がっていく。その変化のすべてを僕は、まるで使命であるかのように寸分漏らさずカメラに収めていく。
雨の動きが止まった。バスローブの紐がほどけかけているのに気がついたのだ。雨の手がゆっくり動いて、紐の先をたぐり寄せる。
ここで再び、僕の悪戯心に火がついてしまった。
「そのまま!」
僕は静かに声をかけると雨の手の動きが止まる。
「直さないで。自然にはだけていくように……」
我ながらなんとも無理な注文だ。
雨はじっとしたままこちらを見ている。そんな彼女を僕はファインダーごしに観察する。視線の動き、眉の角度、頬の膨張率、唇の彩度、首すじのコントラスト。指先の緊張度。彼女のディテールの一つ一つがカメラのプリズムを通過して僕の網膜に結像する。
バスローブを脱ぐわけにはいかないだろう。あるいは、僕にわからないように下に水着を着てきて、脱ぐフリをするかもしれない。とにかく彼女は、昨日と同様に僕の反応を見て笑うつもりだろう。そう思っていた。
いや。
本当にそう思っていたのか、自分のことながら怪しいものだ。僕はひょっとして……。
頭の中の自分と問答をしているうちに、雨はゆっくりと動き出した。
両手を少し上げて、ずり落ちた襟を自然な動作で直す。まるでダンスを踊るような腰つきでゆっくりと体を動かしてポーズをとっていく。そうやってゆっくり動くことで、焦らしながら僕の期待値を高める作戦に違いない。
心の奥でそんな攻防戦を繰り広げながら、雨のポーズに合わせてシャッターを切ることも忘れない。
しばらく踊っていると、ついに紐がほどけて白い胸の谷間と腹が覗く。雨はバスローブの下に何もつけていなかった。
そう、僕はこうなることを予測していた。雨がバスローブで現れた時から、下になにも着ていないのがわかっていた。何故かって? 理由はわからない。どういうわけかわかったんだ。だけどそれを、彼女が僕を笑いものにしようとしていると思いこんで否定してた。
そう、雨は一度だって僕を笑いものになどしていない。彼女は最初から本気で僕を誘惑しようとしていたんだ。何故かそれが今、はっきりとわかった。
『透くんはボクネンジンだから……』いままでつき合った女性から、よく言われた言葉だ。正確な意味はわからないが、彼女達だってわかって使っていたわけじゃないだろう。最後に別れた彼女にどういう意味かと聞いたら、女心のわからない奴のことだと言っていた。
雨のバスローブはついに、その細い肩からゆっくりと滑り落ち、彼女の白い裸身を露わにした。
まるで目の前に降臨した天使が、地上ではあっと言う間に消えて無くなってしまうとでも言うように、僕は寸暇を惜しんでシャッターを切り続ける。
笑ってくれても構わない。事ここに至ってなお、僕はこの先に待ち受けるであろう出来事に全く心の準備ができていなかったのだ。
両手を耳の後ろから髪に差し入れ、肘と胸を突き出して近づいてくる雨は、まるでビーナスのように美しく、そしてニケのように威圧的だった。
そして彼女は、両腕を延ばして僕の首に回し。
レンズを右目で覗き込んで。
もう、近すぎてピントが合わない。
カメラを下ろすと、そのままベッドまで押されて後退し、ついには彼女の細い体に押し倒されてしまった。それでもまだ、僕は……。
「その気にならない……」
僕の思考の続きを雨が音読する。もう僕は驚かなかった。
「あたし達の村の女は、特殊な力を持ってるの。人の心が読めるのよ」
そこまで一息で喋ると、彼女は真顔でじっと僕の目を見る。
「この力を使って、あたしの家は代々呪術師……と言っても今で言う政治コンサルタントみたいなものだけど……それで生計を立ててきたの。クライアントは朝廷、幕府、明治政府と移り変わってもそのコネクションは続いていた。戦後、GHQが介入してくると、彼らと日本政府との会合に非公式に参加して、アメリカ側の真意を暴いたり交渉がスムーズに進むように手助けしたりもしたわ」
雨は、この村の秘密を僕に話す。彼女の口調はまるで誰か別人が乗り移ったかのように豹変し、薄明かりの中で裸身を晒すその姿は、託宣の巫女のようだった。
「戦後はあたし達の存在を隠すようにこの村に閉じこめられたけれど、生活に不自由はなかった。奇麗な館を建ててもらったし、都会と何も変わらない暮らしもさせてもらった。
人の心が読める女は寿命がとても短いの。きっと、その能力が命を削っていたのね。そして子供を身ごもることで能力と引き替えに命を長らえた。
政府とのコネクションが切れてから女達は喜んで子供を産んだわ。でも生まれた子供はみんな女の子だったの。
寿命が短い巫女は常に予備が必要で、それを確保しておくために、女ばかりが産まれる村になってしまっていたの。男は出生率が低くて、今ではみんな年老いているわ」
だから僕に?
「だからあなた……というわけじゃないわ。そう、これは愛なんて美しいものじゃない。生きるために必要な呪われた行為なのよ。でも、産まれてくる子供には愛が必要でしょう? だから……」
雨は言葉を切ると、僕の目を見つめる。
「その子の父親には、あたしが愛した人がいいの」
彼女はそう言うと、まるで雲さんのようにニッコリと微笑んだ。笑顔なのに瞳は悲しげに濡れて光っている。
僕はそれを知っていた。いや、初めて聞く話なのに、何故かずっと前から当たり前だったように理解できた。
しかし、理解するのと受け入れるのは話が別だ。僕はベッドから無理矢理飛び起き、雨の手をとって立たせた。
「ここから逃げよう」
彼女の手を両手で包み、その瞳を見つめながら僕は言う。
「だめよ。あたし達はこの村から出ることは許されないの。でも……」
雨が口ごもる。
「適齢期が近づくと、村の年老いた男達の相手をすることになる。それは、この村の掟なの。死なないために、あたし達のためにするんだっていうのよ!」
雨は心底いやそうな顔をして言う。
渋谷と名乗る庭師と雲さんの会話がフラッシュバックした。破廉恥なシーンを勝手に想像して嫌悪感がこみ上げてくる。
このまま逃げ出すわけにはいかない。
彼女を拒絶する理由などもう忘れてしまった。いや、そんなものは最初から無かったのかも知れない。
僕は雨の裸の肩を抱きしめると、彼女の首筋に口づけをした。