第十話 まるで夢を見ているようで
ベッドの上で目が覚めた。いつの間にか眠ってしまったようだ。
首を回してみるが、雨の姿はない。彼女のバスローブは床に落ちていた。どこに行ったのだろうか。ゆっくりと起きあがって窓の外に目をやる。いつの間にか日が傾いて、雲の切れ目から光の帯が木々に降り注いでいた。
静かだ。部屋の奥のドアからかすかに水音が聞こえる。シャワーを浴びているのだろう。
雨の表情が。雨の声が。雨の反応が僕のまぶたの裏に焼き付いている。我ながら現金なものだと思うけど、今は雨の存在がとても愛おしい。僕は雨と出逢うためにこの村に来たに違いない。
ふと、バスルームに飛び込んで雨を驚かせてやろうと思いついた。彼女の怒った顔を見てみたい。カメラを手に取ると僕は足音を忍ばせて奥のドアに近づく。シャワーの音が次第にはっきりとしてきて、僕の頭に雨の裸身を結像させる。
ドアノブをゆっくりと止まるまで回し、音を立てないように気をつけて開ける。思ったとおり、そこはバスルームの脱衣所だった。小型の洗濯機が設置されていて、昼間雨が着ていた服が突っ込んであった。自然と顔がにやけてくる。気分はまるで覗き魔だ。
バスルームのドアノブに手をかけ一気に開けながら、驚かすために彼女の名を叫ぼうと息を吸い込んだが、それは声にならなかった。
雨はバスタブの中にいた。左腕がだらりと垂れ下がり、目を閉じて天井を向いた頭は壁にもたれかかっていた。
ドアがゆっくり開くのが目の端に映る。
髪の短い女性が顔を出し、大きく開けた口がなにごとか叫んでいるように動いている。
彼女はバスルームの床にひざをつき、バスタブの中の人形を覗きこんでいる。
何をしているのだろう。
声をかけようと思ったが、なぜか言葉にならない。
彼女はたしか、この家の娘だ。
自分の人形を探しにきたのだろうか。
人形が濡れてしまったから、怒っているのだろうか。
彼女を写真に撮りたい。
あれは僕のモデルだ。
ここにどうして雲さんが?
突然、世界に音がよみがえった。
リアルな時間の流れがシャワーの轟音となって僕の肌にざくざくと突き刺さってくる。音は戻ったけれど、色はまだ失われたままだ。
もう雲さんは叫んでいない。バスタブの中で動かない雨の首筋に指をあてている。
こちらを振り向くとにっこりと微笑んだ。そして静かにささやく。
「大丈夫よ」
本当なのか?
彼女はバスタオルを持ってきて、雨の頭に巻いている。
「大丈夫。この子、血圧が低くてよくこうしてのぼせるの。念のために近くの診療所で診てもらうわ」
部屋に恵理子さんが入ってきて、雲さんと二人で裸の雨を抱き上げ、ドアから出ていく。
本当に大丈夫なのか?
今度は少女がバスルームに入って来た。霧ちゃんだ。彼女は新しいバスローブを僕に羽織らせてくれた。
その時はじめて、自分が裸のまま床に座り込んでいたのに気がついた。
彼女は僕の近くに寄り添うようにして座った。水浸しの床にふれて彼女のショートパンツも濡れてしまう。
昨日まであんなによそよそしかった霧ちゃんが、今はとても優しい。それがなんだかうれしかった。
「大丈夫よ」
雲さんと同じことを言った。初めて聞いた彼女の声。幼い声音だがしっかりしている。
どのくらいここに座っていたのだろうか。
いつの間にか霧ちゃんは、両手で僕の手を包んでくれていた。彼女の手が小刻みに震えている。いや、震えているのは僕の手なのかもしれない。
雨は大丈夫なのか? 本当に貧血なのだろうか。
そんなことばかり考えた。死んだのではないかとちょっとでも考えるのは恐ろしかった。
近所にあるという診療所には、もう着いたのだろうか。今頃は医者に診てもらっているのだろうか。もう意識は戻っただろうか。
救急車の音は聞こえただろうか。それとも自分の車に乗せて行ったのだろうか。
思考が一方に偏らないように、同じ考えを頭の中でぐるぐる回転させていく。
しばらくすると部屋に雲さんがあらわれて、僕の前にひざをつくと、両腕で僕の頭をやさしく抱きしめた。
「大丈夫よ。のぼせて気分が悪くなったみたい。今は診療所で寝ってるわ」
気分が? 生きてるのか。本当に?
雨の、あのいたずらっぽい笑顔がまた見れるのか。
良かった。
僕は夢中で雲さんの背中にしがみついていた。
柔らかいふくらみに顔をうずめて、首筋から伝わってくるすさまじい震えに耐えていた。そうしながら、喉の奥からあふれ出てくる鳴咽を止めることができなかった。
しばらく泣いた後、雲さんの心地よい匂いに包まれて、僕はいつの間にか眠りについた。




