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第七話 彼女はついにここへきた

 歯茎から血が出ませんか?

 霧が僕の顔を覗き込んでそうたずねてくる。霧は歯茎なんて言葉を知らないはずだ。だからこれは夢なのだろうけど、なんで歯茎からの出血なんだ?

 僕が刺されたのは腹だ。それを思い出したらじわじわと傷口が痛み出してきた。


 薄く目を開けてみるとやはり霧がそこにいた……が、彼女はどこか別の方を向いて何かを食べている。リンゴのようだった。目だけをぐるりと動かして辺りを見回すと、僕は折り畳み式の柵に囲まれたベッドに寝かされていた。ここは病室のようだ。

 そして僕のベッドの横にはもう一人、女性が座っているのが見えた。彼女がリンゴを剥き、霧がそれを手づかみで無邪気に食べている。女性の顔はどこかで見たような気がする。いや、最近はこんな事ばかりだから、今度こそ気のせいかもしれない。自分の記憶に確信が持てなかった。


「気がついた?」


 リンゴの彼女が僕の方に視線を向けて微笑んだ。誰だろう?

 身体を起こそうとして腹筋に力をいれると、へその辺りに針で刺されるような鋭い痛みが走って、身体がベッドに倒れてしまう。下腹が妙に痺れてひきつれるような嫌な感覚があった。ナイフの刃は僕の腹のどこまでを切り裂いたのだろう?


「昨日もお見舞いに来たのよ。ずっと眠ったままで会えなかったけど」


「昨日もって……今日は何日ですか? 事件はどうなりました?」


 僕はずっと眠っていたのか。あの男はどうなったのか。里美さんは無事だろうか。


「事件があったのは一昨日。あなたがこの病院に運び込まれてすぐ手術になって、終わったのは明け方だったみたい。それから今日の午後までずっとICUにいたのよ」


 僕はベッドに横になったまま目を丸くしていた。あれからもう二日も経っているのか。


「まだ混乱してるみたいね。大丈夫?」


 彼女が優しく微笑む。


「ひょっとしてあたしが誰だかわからない? 忘れちゃった?」


「えーと」


 悪いけれど思い出せない。


「仕方ないか。あんな事があったんだもんね。電話がきてから、あなた顔色変えて飛び出して行っちゃったじゃない。心配してたんだから」


 ああ、あの宴会場にいた双子の片方か。ビールだったかワインだったかを僕に勧めた記憶があるが、なぜか顔までは覚えていなかった。


「じゃあ、そろそろあたしは帰るわね。まだここに滞在してるから、また来るわ」


 彼女はそのまま立ち上がって病室を出ていってしまった。


「お大事にね」


 その後、医者と看護士が病室に来て、意識を取り戻した僕を診察していった。医者の次には私服の刑事が事情を聞きに病室に現れ、写真館で働くことになった経緯や犯人について知っていることを聞かれた。

 その刑事から里美さんが助からなかったことを聞いた。

 半年以上に渡って彼女に付きまとっていたストーカーに押し入られ、ナイフで胸や腹を数十回も刺された。運ばれた病院での緊急手術の最中に息を引き取ったそうだ。

 里美さんを刺した犯人は、彼女の中学校時代からの同級生だった。彼は高校卒業まで同じ学校に通い、卒業式で里美さんに振られたのをきっかけにストーカーになった。

 三年間もの間つきまとい続けた末、彼女の父親に諭されてストーカーをやめたが、僕があの写真館を訪れてから、再び彼女の行動を監視するようになったらしい。


 でも、どういうわけか僕には里美さんの死が悲しくない。

 奴にナイフで斬りつけられた痛み。霧を汚された光景は思い出してもはらわたが煮えくり返るほどの怒りを覚える。でも里美さんが殺されたという事実にはなぜか心が動かされない。

 それに気がついてしまった僕の背中に戦慄が走る。そう、これはあの時と同じだ。僕と霧が逃げてきたあの村で、最愛の女性、雨を失った時と。

 今までと何も変わらないのに、雨が死んでしまったことについてだけまったく感情が働かなくなってしまう。

 雨の死からまだ半年ほどしか経っていないけど、僕はその悲しみを思い出せない。いや、忘れてしまったわけじゃなく最初からそれを感じることができなかったのだ。だから僕は雨の死を悼むことができない。

 これは罰なのだ。あの村人達同様、僕自身もテレパスを経由してコントロールされていた証拠だ。そしておそらく、里美さんが死んでしまった今回も『彼女』が関係しているはずだ。

 でも、『彼女』は一体どうやってあの村を出ることができたのだろう。

 『彼女』の話を信じると、村人は誰も村を離れることができないハズだ。テレパスから遠く離れると、テレパシーのネットワークから切り離されて意識を失う。糸が切れた人形のように昏睡状態に陥って、最悪の場合は死んでしまうこともあるのだ。

 それに、テレパス自身は人工呼吸器に繋がれた寝たきりの老婆なのだ。そんなテレパスを連れて、村人総出で移動することなどどう考えても不可能だ。


「狩屋くん。ついでに君と妹さんのことを聞いてもいいかな?」


 刑事の一人が僕に話しかける。

 嫌な質問だった。後ろめたいことは何もないが、当たり障りなく説明することは難しい。それにこの刑事達を納得させるのは里美さんを相手にするより何倍も難しいだろう。


「本当は従兄妹なんです」


 僕と刑事の話に柔らかく割り込む声がした。

 刑事は声の方を振り向く。でも、僕にはそれができなかった。

 そんなことはありえない。霧はついさっきまで包帯に巻かれて横たわる僕のことなどお構いなしに、お見舞いの果物をニコニコしながら食べていたんだ。

 まるで小さな子供のように。まさに小さな子供そのもののように。本当に小さな子供以外の何者でもなかったんだ。


「親戚関係がちょっと複雑で、いつの間にか親同士の交流がなくなっちゃって……。

 透兄さんには小さい頃よく遊んでもらってたんです。久しぶりに会ったらなんだか懐かしくなっちゃって、夏休みの間だけ、わがままを言ってあっちこっち連れていってもらってるんです」


 霧が、知らないはずの語彙を使って長い台詞をスラスラと喋っている。

 刑事はつまらなそうな顔をして彼女の話を聞いていた。でも、僕はこの鳥肌が立つような驚愕が顔に出ないようにコントロールすることに必死だった。

 霧が年相応に普通に喋るということ。それに僕の感情を支配するこの違和感。これらから導ける結論はただ一つ。

 あの村の『彼女』が……テレパスが、すぐ近くにいるということだ。そして今この瞬間、『彼女』は霧を操って自由自在にしゃべらせていた。

 必死になって動揺を隠そうとしたが、心臓の鼓動が自分でも聞こえるほどに高鳴っている。


「里美さんの事があってショックだけど、もう少しだけここにいたいんです。明日には家へ帰ります。あたし達がここにいることを家族には知らせないでください。あたしと一緒だとわかったら、透兄さんが本家の人達にどんな目に遭わされるか……。だからお願いします」


 そういって霧の姿をした何者かは、目元にうっすらと透明な液体を浮かべて見せた。

 あんな言葉で人間は簡単に騙されてしまうのだろうか。無垢な少女の外見で、薄気味悪い虚構をそのまま信じてしまうのだろうか。

 霧の体は今、テレパスを経由して『彼女』に乗っ取られているのだ。新たに芽生えた幼い自我は魂の居室の片隅に追いやられ、目に見えない暴力によって身体を奪われているのだ。


 ほどなくして刑事は帰って行った。

 部屋に残された僕は『彼女』に乗っ取られてしまった霧をただ呆然と見つめる事しかできなかった。

霧の唇が再びなめらかに話し始める。今度は僕に向かって。


「透くん、おひさしぶりね」


 紛れもない『彼女』のしゃべり方だった。


「……でもないかな。さっきも会ったよね」


 霧の台詞を別の声音が引き継ぐ。

 病室のドアが開いて一人の女性が入ってきた。さっきまで僕のベッドの横に座ってリンゴを剥いていた、ゴスロリの双子の片方だ。


「自己紹介はしてないけど構わないわよね。名前は『雪』っていうのよ。でもこれ、車に乗ってて思いついた名前なの。戸籍上の名前もあるんだけど忘れちゃったわ」


 彼女はそう言うと、にっこりと笑った。

 あの村から逃げ出した後、僕のマンションに『彼女』から電話がきた。そこで僕はあの村の秘密のすべてを聞かされた。


 僕の祖父が若い頃にあの村を訪れ、村長の娘だった『彼女』と駆け落ちして女の子が産まれた。祖父が母子を捨てていなくなった後、『彼女』は村に戻って子供を育てた。しかし、その子は普通の人間ではなかった。生まれながらに他者と意識を通じさせることができるテレパシーの持ち主、テレパスだったのだ。

 テレパシーと言っても漫画やドラマみたいに都合のいい能力ではなかった。

 産まれながらのテレパスは胎児のうちから母親の思考の嵐にさらされ、自我を持たない単なるテレパシーの送受信機としてこの世に誕生した。


 母親が赤ん坊の異変に気づいたときにはもう手遅れで、その後に生まれてくる村の子供達は妊娠中からテレパスの影響を受けてしまい、一人の例外もなく『彼女』の魂の入れ物として誕生することになった。

 そして時は過ぎ、世代交代の末にすべての村人が『彼女』の傀儡になった後、さらに非情な現実が待っていた。テレパスの寿命が迫っていたのだ。

 テレパスの母親であるオリジナルの肉体はすでに老いて死んでいたため、『彼女』の自我はテレパシーを媒介して村人全員に振り分けられていた。テレパスが死んだらテレパシーのネットワークが分断されて『彼女』の自我はバラバラに崩壊してしまう。

 それをくい止めるために『彼女』は、祖父の血を受け継いだ僕をあの村に呼び寄せて、新しいテレパスを産もうと考えた。僕はあの異常な村から霧を助けるために連れて逃げたんだ。しかし、村から離れると霧は意識を失い、昏睡状態に陥ってしまった。


「この子は、私たちから離れている間に生まれ変わったのね」


 『彼女』が言う。

 その通りだ。霧の身体は長い昏睡の果て、餓死する直前に至って、主を失った脳が自分だけの新しい自我を作り上げたのだ。


「こんな事ができるなんて驚いたわ。まるで奇跡ね。あの村ではそれを試すことさえできなかった」


 僕の脳裏に、先日の火災のニュースがリプレイされる。


「今朝、I県H群谷津峰村で個人宅が全焼しているのが出入りの業者によって発見されました。現場は三百坪を越える広大な二階建ての洋館で、消防の調べによると発見された時点ですでに自然鎮火しており、鎮火から少なくとも一昼夜以上が経過していたもようです。

 洋館の焼け跡からはたくさんの炭化した遺体が発見されており、県警は事件・事故の両面から捜査を行い遺体の身元確認を急いでいます」


 『彼女』は、この温泉地にテレパスを連れて来たのだ。一昨日、ホテルの玄関で見た霊柩車を思い出す。

 僕の思考が緩やかな波になって『彼女』に届く。


「生命維持装置ごとあの車に乗せて来たのよ。他にも車に乗せられるだけ連れてきたんだけど、それでも村の人口の二割くらい。連れて行けない子達は洋館に集めて眠らせてきたの。でも、火事があったみたい。昔の記憶はもうほとんど失われてしまったわ。何を忘れてしまったのかさえ思い出せないの」


 そう言って、雪は微笑んだ。『彼女』は自分の大切な思い出と引き替えに、ここまでやってきたのだ。


「以前のあたしはきっと、しがらみとか罪悪感とかそんなものに煩わされる日々を送っていたんじゃないかな。でもそんなこと綺麗に忘れちゃった。いい? 何を忘れたのかはどうでもいいの。綺麗に忘れたってことが大切なのよ。今は透君のことだけ覚えていられれば、それでもう十分」


 雪はベッドの端に腰を下ろして、僕の腕に寄りかかってきた。『彼女』の手のひらが僕の脇腹から胸に向かってゆっくりと移動し、細く冷たい指が僕の体温を少しだけ奪っていく。僕には抵抗ができなかった。

 あの村から離れてしまえばすべての運命から逃げられると思いこんでいた。『彼女』が向こうからやってくることなんて想像もしていなかった。僕はこのとき、『彼女』に抵抗する気力どころかその理由までも心の内から奪い取られてしまっていた。


 頭を持ち上げて視線を巡らす。ベッド脇のスツールに腰掛けて病室の何もない空間を眺め続けている霧が見えた。まるで操手のいないマリオネットのように見えた。再び奪われてしまったあの瞳に、今何が映っているのだろうか。

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