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第八話 儀式

 病室の窓から晩秋の西日が差し込む。雪は僕の両脚の間に座り込んでいた。紅色に輝いた髪が顔を覆って表情を見ることはできない。急に下腹の辺りが暖かい安らぎに包まれた。

 あの村を脱出してからずっと感じたことのなかった安心感に包まれて、心の奥底にこびりついたまま触れることも消すこともできなかった雨の死に対する感情がゆっくりと意識の浅瀬まで浮き上がってきて、僕の心の中でわだかまっていた何かをゆっくりと溶かし初めていた。

 雪にそっくりな女性がもう一人現れて、僕の上半身に覆い被さり優しく唇を押しつけてきた。指先が僕の身体に触れる度に一人ずつ彼女が増えていき、暖かな心地よさに身を任せているうちに、僕はたくさんの彼女たちに取り囲まれていた。

 現実に彼女が増えていたのか僕だけに見えた錯覚なのかどうにも判断がつかない。しかし、そんなことはもうどうでもいいことだった。


 彼女の中の一人が僕の腰の上にまたがって激しいダンスを踊り始めた。彼女は何も身につけていない。その顔は、あの村で死んだ雨のようでもあり、そのボディラインはストーカーに刺された里美さんのようでもある。彼女は僕の記憶の中の死んでしまった女性達からパーツを拝借してできあがったキメラの様にも見えた。


 近づいては遠ざかる潮の満ち引きが何度となく繰り返され、ついには彼女の全身を鷲掴みにしたまま猛烈な勢いでこことは異なるどこかへ連れ去って行った。その圧倒的な昂揚感と多幸感を強制的に受信させられた脳が、感覚を通常の数百倍まで増幅して僕の肉体を支配していた。まるで全身に高圧電流を流されているかのように、背骨が鞭の様にしなり、すべての筋肉がコントロールできない強力な負荷のために収縮して、一瞬の間に硬直と弛緩を連続して繰り返した。

 彼女は僕のDNAを手に入れ、それを胎内の安全な場所に保管した。これで『彼女』は再び長い長い孤独の旅路に赴くのだろう。

 テレパスの脳活動に影響されて糖蜜のように粘性を増した脳細胞の中で、僕の思考は回転速度を限りなく低下させていく。でも、普段の思考に比較してどのくらい遅くなっているのか、まるで見当がつかなかった。

 僕の傷がある程度癒えるまで彼女はしばしば病室にやってきて、同じ儀式を繰り返した。子孫を残すために異性に惹かれる本能が『愛』の正体だとしたら、この数日間、僕の病室で密かに行われたものは愛だったのだろうか。


 ある日の午後。儀式はついに終焉を迎え、そしてそれは起こった。

 あの村の出身者ではない僕。生まれながらにしてテレパシーの洗礼を受けていない僕には、それを直接認識する事はできない。

 まず最初に絶叫が響きわたった。硬質な床に反響した音声が耳をつんざき、僕はここが病室であったことをゆっくりと思い出す。

 人間の喉から絞り出されたとはとうてい思えない、鶏の鳴き声のような不気味な悲鳴が三度続き、それが次には明瞭な声となって周囲の空気を緊張させた。


「やめてぇー!」


 女の悲痛な叫びが真っ白な病室に響く。

 まだ、何が起こっているのか知ることができない。

 僕にまたがっていた雪が

 後ろに仰け反るようにして倒れ。

 そのまま床に崩れ落ち。

 すぐに上体を起こすと

 喉を絞り上げた。

 その目は僕ではなく

 ベッドの横に座っていた霧を凝視する。


 彼女は固く目を閉じて

 両手はスカートの裾を強く握り締め

 その口は叫ぶように開かれ。

 でも声は聞こえず

 身体が小刻みに震え

 鼻や歯茎から

 赤いものが静かに流れ

 真っ白いキャミソールにシミを作って


 それは、霧の自我が自分の体を必死に取り戻そうとしている姿にも見えた。


 雪がゆっくりと立ち上がり、ふらつきながら窓に向かって歩いていく。外は暗くなっていた。彼女は窓を開けると大きく身を乗り出して下を覗いた。

 嫌な予感。

 彼女を追ってベッドから飛び降りると窓に駆け寄る。まだ抜糸が済んでいない腹の傷が警鐘を鳴らす。雪が窓から落ちないように腰に手を回して引き寄せた。それでも彼女は窓の下を凝視している。つられて僕も下を覗いた。

 病室の真下は外来患者用の駐車スペースだった。夕方になって車もまばらな駐車場にアメリカ製のステーションワゴンが停まっているのが見えた。ホテルで見たあの霊柩車だ。薄暮の駐車場でその一台だけがヘッドライトを点けていた。あの車にはテレパスが乗っているのだ。


「やめてぇー!」


 再び雪が絶叫する。

 誰かが運転席に乗り込むのが見えた。駐車場の灯りに一瞬だけ真っ白なレースが翻る。ゴシックロリータだ。


「やめろぉ!」


 雪は絶叫しながらが無茶苦茶に暴れだした。

 一体何が起こっているのか僕にはまだわからない。見当もつかない。あれが双子のもう片方ならば操っているのは『彼女』のはずだ。その行動を雪が止めようとするなんて、まるで右手と左手で喧嘩をするようなものだ。

 彼女は僕の腕を振りほどくと、叫びながら振り向いて霧に飛びかかった。両手をのばして霧の白くて細い首をがっちりと掴んで締め上げようとする。後ろから雪を羽交い締めにして引き離そうとしたが、彼女の腕は想像を絶する力で霧の首を締めつけていた。このままでは霧が殺される。僕は必死だった。無意識のうちに身体が動き、右腕を雪の首に廻して固定し、自分の体重のすべてをかけて『彼女』の首を……。


 折るつもりなのだろうか。

 この娘を殺すつもりなのだろうか。

 僕にはその覚悟があるのだろうか。

 僕にはその権利があるのだろうか。


 わずかに逡巡したその刹那、窓の外で鈍い破裂音が響く。まるで地の底から響いてくるような音だ。

 そして雪の膝が崩れ折れて、そのままゆっくりと床に倒れた。霧の命を奪おうとしていた両腕は容易に引き剥がされて、へし折られた木の枝の様に転がった。

 立ち上がって窓の外を見た。病院の駐車場の出口がほの暗い街灯に照らされている。そこに大型のクレーン車が道路を塞ぐように斜めになって停まっていた。クレーン車の前方には何か黒いものがあるのが見える。衝突されて滅茶苦茶に潰れた固まりに変貌した霊柩車の成れの果てだ。

 前席も後部も完全に潰れていて、とても助かるとは思えない。確認するまでもない。床に転がったまま動かない雪を見れば一目瞭然だろう。ついにテレパスは死に、そして『彼女』の自我は分断されてこの世から消えてなくなったのだ。


 『彼女』が死んだという実感はなかった。

 首を絞められていた霧が、雪の横に倒れていた。

 しゃがみ込んでその頬に触れる。そこからゆっくりと首筋に手を移動する。肌はまだ暖かくなめらかだったが、すでに脈はなかった。

 頭の中が疑問符で満たされてしまって、まだどこからも悲しみがやってこない。

 霧は何をしようとしていたんだ? あの霊柩車を動かしていたのは霧なのか? そうだとしたら雪が首を絞めてまで阻止しようとしたのも納得できる。しかし、自我を得たばかりの霧にそんなことができるものだろうか。

 そして、霧はどうして『彼女』を殺そうとしたのだろうか。

 わからない。

 『彼女』には霧を殺すメリットがない。霧にしてみても十七年間自分の身体を支配してきた『彼女』の存在など知りもしないハズだ。

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