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第十三話 眠り姫とお風呂

 翌々日の朝、ドアチャイムが鳴った。霧ちゃんを連れて東京に戻ってから、初めて聞いた自分の部屋のチャイムだ。そういえば、うちのドアチャイムはこんな音だったなと思い出す。

 チャイムはしばらく黙ってから、ふたたび短く鳴った。

 エアコンが動いているから在宅なのがわかっているのだろう。面倒だったが何度も鳴らされるのはごめんだ。ゆっくりと立ち上がって玄関に向かう。何も食べていないせいか足元が少しふらついた。

 ドアを開けると、暑い空気が室内にゆっくりと侵入してくる。スーツの上着を腕に掛けた、ワイシャツ姿の男が立っていた。ネクタイはしていない。


「こんにちは。狩屋透さんですね」


 何の特徴もない冴えないタイプの中年の男だ。一瞬村人かと疑ったが、それならここまで来ることはできないだろう。


「青山で探偵事務所をやってる者です。香春崎さんとおっしゃる方からの依頼で、妹さん……霧さんを迎えにきました」


 代理人を寄越したのか。


「中にいますよ。勝手に連れていってください」


 僕はぶっきらぼうにそう答えた。手を貸してやる気などさらさらない。


「まあ、待ってください。事情は香春崎さんにお聞きしています。ちょっと失礼」


 そう言うと、探偵と名乗る男は部屋の中に入ってきた。狭い玄関で体をよけて彼を部屋に通す。この探偵は、彼女から一体どんな事情を聞いているというのだろう。

 ワンルームの奥のベッドを覗き込んで、探偵は言った。


「まだ大丈夫そうだ。今度の土曜にまた来ます。ああ、それから。これは香春崎さんより預かったものです。お爺様の形見だそうですよ」


 それだけ言うと、黒い皮のバッグを置いてさっさと帰ってしまった。

 霧ちゃんの命が続く限り、ここに置いておくつもりなのだろうか。どんなに時間を稼いだって無駄だ。こんなに幼い……しかも意識がない状態の少女が抱けるものか。

 探偵が置いていったバッグの中身は、ドイツ製の骨董品のレンジファインダーカメラだった。それにレンズが何本か。祖父が使っていたものだろう。形見分けのつもりか、種付けの報酬だとでも言うのか。

 バッグの中には他に何もない。祖父が撮ったフィルムどころか写真の一枚も入っていなかった。

 

 いつの間にか眠ってしまっていた。窓の外は暗い。今が何時なのか、今日がいつなのかわからない。

 立ちあがろうとすると目がくらみ頭痛がする。僕はなんで断食しているのだっけ。食欲がないから?

 ああ、思い出した。霧ちゃんが食べられないからだ。彼女は話すことも目を開けることもできない。餓死するまで食事はできないのだ。

 でも、霧ちゃんなんていう人格は、世界中探してもどこにも存在しない。すべては彼女の演技だった。ここに寝ているのは糸の切れたマリオネットだ。人形が食べないからと言って、僕まで我慢する必要はない。

 ゆっくりと立ち上がって冷蔵庫を開ける。中身は少ない。肉はほとんど腐っていた。野菜類もしなびてダメになっている。まるで浦島太郎にでもなった気分だった。竜宮城で彼が受け取った玉手箱の中身は、一体なんだったのだろうか。


 僕は手近にあった服を身につけると、ふらつく脚で近所のスーパーまで出かけ、食料を買いこんできた。

 プラスチックのフォークでサラダをつつく。カツサンドを頬張り、ミネラルウォーターで胃に流し込む。とたんに猛烈な吐き気に襲われてトイレに駆け込んだ。知らない間に体が食べ物を受け付けなくなっている。

 今度は刺激の少ないものを選んだ。缶入りのコーンスープを鍋に移して温める。こんなところで人形と心中しようだなんて馬鹿げたことだ。死んでたまるか。

 ベッドの人形は相変わらずじっとしたまま動かない。顔を近づけるとわずかに開いた唇はカサカサに乾いていた。目のまわりに目ヤニがついていて、髪はベトベトしている。彼女が失禁しているのにそのとき初めて気づいた。

 バスタブに湯が溜まるのを待ち、彼女を抱き上げて風呂場に向かう。彼女の格好は、洋館の僕のベッドに忍び込んできたあの夜のままだ。ひざ丈ワンピースのパジャマをはぎ取って洗濯機へ放り込む。思った通りその下には何もつけていなかった。

 抱き上げたまま、脚の方から湯舟にゆっくりと降ろす。頭ががくんと倒れて顔が水面に浸かってしまう。慌てて抱き起こすと、安全のためにバスタブから半分ほど湯を抜いた。

 首の下に左腕を入れたまま髪に湯を掛ける。シャンプーを手にとって髪を洗い、バスタブの中でそのままシャワーで流す。顔に湯がかからないように注意したが、少し鼻から吸い込んだらしく、彼女は背中を丸めてゴホゴホと激しく咳こむ。その反応にびっくりした。


 この子は生きているのだ。


 バスタブの湯を抜き、スポンジに泡を立てて首から洗い始める。どのくらい力を入れていいのか見当もつかず、まるで傷口を扱うようにスポンジを動かす。高校の写真部の合宿で仲間の背中を流したことはあるが、女の子の体を、しかも前から洗った経験などなかったのだ。背中側はほとんど洗えないが仕方ない。石鹸をシャワーで流して、バスタオルで体を拭い、タオルを髪に巻いた。

 彼女を抱き上げてバスルームを出ると、タオルケットを敷いておいたベッドの上に寝かせる。湯に暖められた彼女の肌は淡いピンク色に染まっている。

 僕は、眼下に横たわる美しい裸体を、しばらくの間眺めた。名画でも観るように鑑賞していた。


 水着姿の雨を思い出す。あれから、何度もなんども雨は僕の前にあらわれる。僕は雨が好きだったのだろうか。彼女の容姿やしぐさ、歩きかた全てが最高の被写体だった。明るくて積極的な性格も嫌いじゃなかったし、あの過剰なスキンシップさえ、わかっていれば違った対応もできたかも知れない。

 でも、雨という人格は彼女が演じていたキャラクターの一人だ。人間にはひとりひとりに魂があるとしても、雨にはそれがなかったのだ。そして、雨が雨であることを証明できる唯一の肉体さえも、もうすでに死んでしまった。

 僕がこの子を抱かなければ、あの村は全滅するだろう。いや、抱いたとしても妊娠するとは限らないし、テレパスが生まれるという保証もない。あまりにも分の悪い賭けではないか。こんな賭けに頼ってまで、彼女は生き続けたかったのだろうか。

 百年近くもの長い長い年月の大半を、たった一人で生きてきた彼女。次のテレパスが生まれたら、彼女はこの先に待ち受けているさらに長い人生をまた一人で過ごすことになる。

 僕の中で彼女に対する憧れと憐憫、そして怒りが幾重にも重なり渦巻く。


 そして、目の前には彼女の分身が横たわっている。その美しい胸は、人格に縛られない自由な空気を呼吸するためにゆっくりと上下して、身じろぎもせず僕に抱かれるのを待っていた。

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