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第十二話 あの写真がすべての始まり

 自宅に戻ってから一日半。

 昨日はマンションに着くと、霧ちゃんを抱き上げてベッドに寝かせた後、僕は車を少し離れたファミレスの駐車場に放置してきた。車から居場所を突き止められないように用心したのだ。

 部屋にもどった僕は、狭いリビングのソファーに横になって、泥のように眠った。


 夢を見た。

 雨の表情。雨の視線。雨のしぐさ。細くて優美な指の動き。ヒールを履いた足運び。どれも鮮やかに思い出せるのに、彼女に対する感情だけが僕の記憶から抜け落ちてどこか暗い場所に流れていってしまった。

 まるで初めから無かったもののように、些細な違和感さえ感じさせない。

 僕が殺したのだ。

 雨と愛し合うその瞬間に、彼女の思考が逆流してきた。恐らく僕はその内容に逆上して雨をバスルームまで追い詰め、そして……。

 でも、その時の怒りさえも、その感情が存在したという事実以上のものは認識できない。

 何度思い出そうとしても、まるで昔観たテレビドラマのワンシーンのように現実感に乏しくて、どんな思いも生まれることを許されない。

 心が何か暖かで柔らかいものに被われていて、外からも内からも傷つけられないように護られている。そのために僕は最愛の人の死を嘆くことすらできないでいる。

 これは彼女の優しさだろうか。それとも仕返しなのだろうか。


 喉の渇きで目を覚まし、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルをとり出してラッパ飲みする。

 部屋を見まわした。一体何日間留守にしたのか思い出せないが、何も変わったところはない。

 締めきっていたカーテンをわずかに開けて、マンションの前の道を見る。怪しい車や人影は見当たらない。

 霧ちゃんはまだ眠っているようだ。寝返りを打った様子もなく、深い眠りに落ちている。

 考えてみれば、車を隠しても雲さんにはここの住所がわかっているのだ。一晩眠った頭で冷静に考えれば、無駄なことをしたものだ。

 それに、村を脱出してからずいぶん時間が経過しているのに、追っ手が来た様子もない。

 彼女達が村から出られないというのは、本当なのだろうか。


 冷蔵庫を開けて卵とハムとバターをとりだす。コーヒーメーカーをセットし、トーストを焼いている間に、二人分のハムエッグを作ってテーブルに並べた。

 メニューはまるで朝食のようだが今は夕方だ。テレビをつけると、ニュース番組が海水浴客でごった返す白昼の海岸の様子を映していた。

 のどかだ。

 霧ちゃんはまだベッドの中にいた。僕は一瞬、彼女が死んでいるのではないかという不安にとらわれて、その白い首筋に触れる。温かかった。頚動脈が規則正しいリズムを刻んでいる。

 顔にかかった髪を指先ですくい上げる。


「霧」


 呼びかけるが返事はない。


「霧ちゃん」


 もう少し大きな声で呼びかける。だが、彼女は軽い寝息をたてるだけで身じろぎもしない。

 肩をつかんで激しく揺さぶる。

 何をしても彼女は目を覚まさなかった。

 雲さんの言葉を思い出す。

 突然、携帯電話の着信音が鳴った。ソファーのクッションの下に落ちていた携帯を見つける。

 液晶画面には『クラウドさん』の文字。雲さんからだ。明け方から何度も着信があったことが履歴に残っていた。

 携帯のキーを押す。


「透くん」


 雲さんの落ち着いた声が聞こえる。僕は応えない。


「霧、起きないでしょう?」


 どこかで見られているのかもと辺りを見まわすが、何も見つけることはできなかった。妹がこうなることが予期できていたということか。一体どうして? 論理を紡ぎ出そうと頭がフル回転を始める。


「あなたを騙して村へ呼んだことは謝るわ。ごめんなさい。でもそうしなければならない理由があったの」


 雲さんは電話の向こうで小さくため息をつくと、ゆっくりと話し始めた。


「あたしたちの家が呪術師のような仕事をしていたのは知ってるよね。始祖は肩書きだけの単なる占い師だったようだけど、それがある時から本物になってしまったの。

 今から八十年ほど前に、この村に一人の旅人がふらりと立ち寄ったの。どんな経緯でこの村に来たのかはわからない。でもその男性と香春崎の娘が関係を持って妊娠してしまった。香春崎家の娘は代々、神託を告げるための巫女になることを義務付けられているの。貞操を守らなかった娘は一族から糾弾され、ついには旅人と一緒に村から逃げだし、駆け落ちした先で女の子を生んだのよ。

 生まれた赤ん坊はとても可愛い子だった。だけど、悲しいことにその子には心が無かったわ」


 まるで見てきたことのように雲さんが話す。


「その娘が身籠もった赤ちゃんは、コミュニケーション能力が異常に発達した超能力者だったのよ。おとぎ話の世界ではテレパシーを扱うテレパスなんて呼ばれるけれど、生まれる前からテレパスだった子供は一体どうなると思う?

 胎児の頃から母親の思考の嵐に翻弄されて、自我を形成することが不可能なほど母親と一体化してしまったの。端から見たらどんな風に見えたのかしら。そんな親子を見て、父親は彼女達を捨てて消えてしまった。この先どんなことが起こるのか、彼にはその時すでにわかっていたのかもしれないわね」


 電話の向こうの言葉が途切れる。

 僕は黙って話の続きを待った。


「それからしばらくして、香春崎家から迎えが来て母娘は村に連れ戻されたの。

 村に戻った直後こそ風当たりは強かったけれど、次第にそれも穏やかになってきたわ。これでようやく二人は静かに暮らせるはずだった。

 でも、娘のテレパシー能力の本当の恐ろしさを母親は正しく理解していなかった。それはすでに取り返しがつかないレベルにまで成長してしまっていた。母娘が戻ってから、村で新たに生まれる子供たちはみんなテレパスの影響を受けていたの。母親の胎内にいる頃からテレパスを経由して彼女の人格の一部を書き込まれ、彼女の魂の入れ物として生まれてくる子供たち。

 ようやく、事態の重大さに気づいた彼女は必死でテレパシーを止めようとしたわ。でも、それはできなかった。方法がわからなかったのよ。仕方なく彼女は目立たない用に暮らした。村人に娘の能力を悟られないようにしなければならなかった。それぞれの子供の体で新しく生まれた人格を演じ続けたの。そうしないと大変なことになる。娘のテレパシーのことがわかってしまったら、二人とも殺されてしまうかもしれない。

 誰だって生まれたばかりの最愛の我が子が、魂を乗っ取られた操り人形だってことを知ったら黙ってはいないでしょう。

 一つの人格のために、何倍もの容積の脳がテレパシーでつながっているのよ。子供達の人格を演じるのは簡単だったわ。そのうちに年月が過ぎて世代が代わり、ついに村は彼女一人になった。そうしてやっと、本当に穏やかな日々を手に入れることができたのよ」


「それって……」


 僕はつい、口を挟んでしまった。それってつまり、彼女達三姉妹もその人格のあやつり人形ということなのか。


「あなたが思った通りよ。あたしも霧も同じ人格の……言葉で言い表すのは難しいのだけど、手足……みたいなものかしら。もちろん死んだ雨もね。ここの村人はすべてあたし。家政婦の恵理子さんも、庭師の渋谷さんもあたし。通せんぼしてた村人達もね。

 あなたが村に来てからは、まるで一人で人形劇を演じているようだったわ。役者は一人、観客も一人。この村にはあたしとあなたの二人だけしかいなかったのよ。

 あなたが霧を連れて村から離れてしまったから、テレパシーでつながったリンクが切れて、植物状態のようになっているはず。早ければ数日で心停止。そうならなくても近いうちに餓死してしまうでしょうね。

 だから戻ってって言ったのに……」


 電話の向こうから聞こえる声は、最後に霧ちゃんにそっくりな舌足らずで抑揚のない言い回しに変わった。

 こんどこそ本当に何がなんだかわからない。テレパシーの存在を肯定するならば、雲さんの……というか彼女の言うことは、辻褄が合っているように思える。だったら、雨も目の前の霧ちゃんも単なる操り人形だったということになる。人形や役者のように僕の前で演じていただけで、そんな人物は本当は存在しない。最初から彼女の芝居だったというのか。

 急に目の前が真っ暗になった。上目使いでいたずらっぽく微笑む雨の顔がまぶたに浮かぶ。でももう彼女はいない。いや、最初からそんな女の子なんかいなかったということだ。

 両脚から一気に力が抜け、僕は床に無様に座り込んだ。目の前に意識のない霧ちゃんが横たわっている。


「僕は……一体どうすれば」


 力なく開いた口から、やっとそれだけ絞りだした。


「大体……」


 淡い怒りが胸の奥に点った。


「大体なんで僕をあの村に呼んだんだ!」


 声は怒りに後押しされてどんどん大きくなる。


「僕が行かなければ雨も死なずに済んだのに!」


「この人格はもうすぐ崩壊するからよ」


 僕の怒号のあとに、彼女は静かにそう答えた。


「離れで機械に囲まれたベッドを見たでしょう? あそこに寝かされていたのがテレパスなの。彼女を産んだ母親の体はすでに寿命を迎えて死んだわ。でも、その人格を形成する思考も記憶もテレパスを介して村人全員の脳に分散して保存されているのよ。

 本来人間の脳が行っているとされる機能は、本当は脳ではなく体の各部が分担して受け持っていて、脳はその情報を整理するための単なる交換機に過ぎない……そんな論文を大正時代の精神病学の教授が残しているけれど、この村とテレパスの関係はまさにその論文の通りだわ。

 そして、テレパスも歳をとって、まもなく寿命を迎える。テレパスが死んだら、あたしの自我を形作るネットワークはバラバラに崩壊して村全体が死を迎えるわ。

 それを防ぐために、テレパスに子供を産ませたけれど、同じ能力を持ったものは生まれなかった。テレパスが老いたらその娘、娘が老いたらまたその娘というように次のテレパスを産むための存在。それがこの三姉妹なの。

 あたしの最初の体はとうに寿命を迎え、テレパスも今、その命を終わらせようとしている。長い間試してきた次のテレパスも望むことはできない。もうやめよう。もう、このまま死んでしまおうと思っていたの。恐ろしい力で自分一人のものにしてしまったこの村と一緒に滅んでしまおうと決めた。だけど、本当に偶然だったわ。あなたのブログを見つけた時にその覚悟が揺らいだのよ」


「僕の……ブログ?」


「そう、あなたのブログに掲載された『洋館の淑女』。あの写真は、旅の男性に出会ったころのあたし。あの離れの部屋で撮ってもらったものなの。あたしと掛け落ちした男性は、あなたのお爺様なのよ。

 あの人の血を受け継いだあなたを偶然見つけて、あたしの生への執着が蘇った。あなたの血で再びテレパスを産めば、あたしはまだ生きられる。そう思ってあなたを呼んだの。

 あなたの顔を見た瞬間、あの人が帰ってきたんだって錯覚したわ。そのくらいあなたは、お爺様にそっくりだった。あたしは……恥ずかしいことだけれど、本当にもう一度生きたいと思ったの。こんな気持ち、あなたに言ってもわからないでしょうね」


 そう言って、彼女は電話の向こうで静かに笑った。

 僕はまだ雲さんの言葉を納得しかねていた。死んだ雨は、もう口を聞けないのだ。雲さんが自分で作った妄想を一人で勝手に喋っているだけなんじゃないだろうか。

 しかし、心のどこかでは、もう何もかもどうでも良くなっていた。


「霧ちゃんを連れて戻ればいいんですね」


「お願い。でもできたら、その子を抱いて欲しいの」


 まだそんなことを言っているのか、この人は。


「そんな約束できませんよ。まだ子供じゃないですか。大体あなたはどうなんですか」


 知らずに語気が荒くなる。いや、わかっている。目の前の少女も、いま電話で話している相手も同じ人格の女性だというのだろう。しかし、こんなに幼い少女にどうしろというのだ。


「この体は駄目なの。十四歳の頃から二十回近く産んできたから、もう子宮が……」


 僕は返事をせずに電話を切った。もう何も聞きたくなかったし、何も言いたくなかった。

 テーブルの上の食事は完全に冷めてしまっている。食欲は既に無くなっていた。

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