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プロローグ

プロローグ


 「――救急です!車が轢いていった!出血が止まらなくて・・・」


兄が道路に倒れている。兄の下半身は赤く染まっていた。段々どす黒くなってきた。母は道路に座り込み、兄の上半身を膝の上で抱きかかえている。


母の息は荒く、体は震えていた。

左手で赤い水が出ている所を必死に抑えている。だけど、水は止まらない。


右手にスマホを持ってどこかに泣き叫んでいた。周りに大人達が集まりだした。

でも、手は触れようとしない。立って見ているだけ。僕も立って見ていることしか出来なかった。


それからすぐ、サイレンの音が聞こえてきた。母は少しばかりか目を見開く。


しかし、


「なんで警察が先に来るの!救急車はいつ来るの!」


蜃気楼の先に、パトカーの姿が見え、母は再び泣き叫んだ。電話はまだ繋がっており、相手側の内容を聞き取ることは出来なかったが、冷静になるよう呼び掛けているようだった。


それから何分経っただろうか。警察の人達が兄を取り囲み、一生懸命声を掛けながら胸を両腕で強く何回も押していた。何度も何度も・・・。


やがて、パトカーとは違う甲高いサイレン音が耳をつんざいた。いつも見る救急車ともう一台。普通の車だけど、大きな赤いランプがついている。後で聞いたけど、ドクターカーというらしい。


警察の人達に変わって、背中に大きく「Doctor」と英語で書かれた服を着たおじさんが、兄に駆け寄り、背負っていたリュックサックからたくさんの道具を取り出した。おじさんが兄に語り掛けるけど、兄は眠ったままだ。手の色がさっきと変わってきている気がした。


母は、おじさんが来てから離れるように言われて、数歩下がったけどまた座り込んでいる。救急車の人が付き添っていた。やがて、兄は車輪のついたベッドに乗せられて救急車で運ばれていった。母も乗っていった。僕は警察の人に、兄が行ったという病院まで連れて行って貰った。


病院にはスーツ姿の父がいた。父は僕を見るなり、強く抱きしめてきた。泣いていた。父が泣く姿は初めて見た。それから少しして、さっき見たおじさんが呼びに来た。部屋には母がいた。俯いている。


兄は綺麗なベッドで寝ていた。もう起きることはない。僕は直観でそう感じた。


小学2年生の夏、2個上の兄は亡くなった。


ひき逃げ事件だった。犯人はその日に逮捕された。薬物乱用者だった。

兄を轢いた後、大きな事故を起こしたらしい。兄について、病院の先生は救急車の到着が早ければ助かったと父に言った。父は激怒し、消防本部に乗り込んだ。消防署の偉い人が謝罪しながら、その時、近くの救急車は全て出払っていて、対応出来たのが事故現場から一番遠い出張所の救急車しかなかったことを明かした。また、救急車到着まで時間を要することから、ドクターカーの要請を大学病院にして、消防として打てる手は全てうった結果であると説明を受けた。


父はそれを聞き、深々と頭を下げて帰ってきたという。



それから、16年後、僕は医師免許を取った。


それから20年後・・・。


 (成田空港において、新千歳空港発成田空港行きJAT3056便が胴体着陸。乗客乗員265名全員の脱出を成田空港事務所は確認しましたが、胴体着陸時の衝撃が強く、外傷者多数。現在飛行場内においてトリアージ実施中。)


ドクターヘリのローター音が耳をざわつかせる中、業務調整員と背中に書かれた服を着た福本は、同じく背中に「ドクター」と書かれた服を着ている江山に、ヘッドホン式の無線機を通してそう報告してきた。


「もう現場にはどこかの医療班が入ってるのか?」


処置に必要な資機材をもう一度チェックしつつ、江山はそう問い掛ける。福本は少し待ってくださいとハンドサインをし、機長へ問い掛けた。少しして機長が直接、江山に対し、


(成田赤十字病院の救護班が既に現地入りしています。消防も消火から救護へ体制を移りつつあるそうです。)


「ありがとう。到着までは?」


(もう空港は見えてます。管制の許可待ちです。だいぶ混乱してますね。)


「だろうな。」


江山は、機長との会話を終え、同じく機内にいる看護師3名に指示を出す。


「ヘリは救護所の近くに着陸して貰う予定だ。私達は県DMAT事務局の指示通り、重篤者のヘリ搬送が任務だ。患者から声を掛けられると、無視出来なくなるのは分かるが、軽症者を対応している時間で、重篤者の命が危なくなる可能性がある。赤タグの患者から対応を頼む。」


江山のその言葉に、看護師3人は静かに頷いた。それから間もなく、


(機長よりクルーへ、成田管制の許可が出ました。予定通り救護所近くに降着します。準備願います。)


機長の声が全員に届き、ヘリは急加速を始めた。

外に目を移すと、小さかった木々が段々大きくなっていく。


やがてヘリは速度を落とし、上空で静止しつつゆっくり高度を下げた。


(着陸します。)


機長の声とほぼ同時に着陸に伴う振動が機内を揺らす。機体が安定したのを確認した業務調整員は勢いよくヘリ側面のドアをスライドさせた。ヘリのローターで巻き上げられた風が一気に機内に流れ込む。江山達は一瞬顔をしかめたが、気にすることなくヘリから飛び出した。


しかし、救護所の状況に思わず息を呑んだ。


「患者の多さに対応が追い付いてないじゃないか・・・」


江山は絶句した。航空機胴体着陸の報を受けたのが1時間前、そこから勤務している大学病院へ県庁からDMAT出動要請があり、出動したのは20分前だった。県庁に正しい状況が届かず、且つ初動が追い付いていない。すぐにそう確信した。


今後の動きに少し迷いが生じたが、命を救うことに変わりはない。


「予定変更だ。県庁からの情報に齟齬があった。よって、当初の重篤者搬送は後回しする。まず、赤十字救護班と連携してトリアージを行う。重篤者がいた場合、まず、成田赤十字病院へ陸路で搬送して貰う。近くの医療機関が搬送を受け入れてくれるなら、それが一番だ。しかし、おそらくすぐ一杯になるだろう。そしたら、一番重篤な患者を私達のヘリで大学に運ぶ。」


救護所エリアに入る前に、江山は指揮する看護師3人と業務調整員1人にそう口を開いた。

全員それを聞き頷く。


「よし。福本は機長へ今の内容を伝えてきてくれ。燃料が無駄になる。」


江山は未だローターを回転させているドクターヘリを指さし、福本に指示を出した。福本は、返事をし、ヘリに向かい走っていった。その姿を見届けながら、江山らは救護所エリアへ足を踏み入れた。






「赤タグが多すぎる。搬送先を・・・」


救護指揮所で、消防隊員がホワイトボードに必要事項を記載しながら思わず独り言ちた。


「成田赤十字は、赤タグ者の受け入れは頑張って後3病床です。軽症者なら受入可能ですが。」


その言葉を聞き、近くにいた男性の赤十字職員がそう返した。


「そんな!もう近隣の医療機関は受入不可なのに!」


「間もなく、他の日赤病院から救護班の増援が来ます。一次処置がここで出来るなら、してから後送しないと。」


その返答に、消防職員は口を噤んだ。その直後、


「千葉県DMATです。状況を教えてください。」


江山が救護指揮所に到着し、付近の職員にそう問い掛けた。


「日赤救護班業務調整員の田所です。赤タグ者で重篤な患者については、付近の医療機関へ搬送済みです。しかし、成田赤十字も赤タグ受入は残り3病床と余裕はありません。他医療機関はすでに断れています。後は広域搬送になります。ただ、今の問題点として、これだけの人数ですから、明らかな外傷がある者や、自覚症状があって申告頂いた方しか、まだトリアージ出来ていません。現在、総出でトリアージを行っている状況です。」


用意していたかのようにスラスラと田所と名乗った赤十字職員は概要を説明した。


「ありがとうございます。DMATの看護師3名もトリアージに入ります。もし、重篤な患者がいて最優先と判断された場合には1名ですがドクターヘリで関東医科大学病院へ搬送できます。」


そう言いながら傍にいた看護師らに、トリアージに加わるよう指示した。指示を受け、看護師らは簡易ベッドが隙間なく並べられているエリアへ走っていった。


「助かります。よろしくお願いします。」


赤十字職員は走っていく看護師らの背中を見届けながら、軽くお辞儀をした。

江山は、仕事ですから。と一言返し、自身もトリアージに加わるべく、指揮所を後にした。





 救護所はまさに戦場だった。265人。航空機から避難してきた全員の健康状態を確認することは、そう簡単なことではなかった。航空機の車輪が降りず、胴体着陸を行う旨、成田空港の空港事務所から各関係機関へ通報があり、成田市消防本部は動ける全隊を出場させた。近隣市町村の消防・救急隊も動員され、千葉県警察は広域援助隊をすぐさま出動させた。胴体着陸敢行時には、救護所も形ばかりは出来上がっていたが、消火と避難誘導が最優先され、後回しされた。理由として、消防局の指揮官らは消火及び避難誘導が完了した時には、各医療機関の救護班が既に集結していると考えていたからだった。しかし、災害時に医療救護を束ねる県は、当初千葉県内で活動できる医療救護班全てに出動準備要請を掛けていた。しかし、胴体着陸が成功し、乗員乗客全員無事という情報が入った途端、救護班の出動をキャンセルした。成田市に所在する医療機関のみで対応可能だと踏んだからだった。だが、県として何も動かないのは問題であるとの観点から、関東医科大学へ県DMATとして出動要請を出したのだった。江山達が到着した時には、265人いた患者は、消防や、一番に到着した日赤救護班の奮闘により115人まで減らすことが出来た。しかし、未だ救護所には患者がひしめいていた。


「大体が緑か黄色タグです。緑タグの方には、成田市の夜間救急センターの紹介をして帰って貰った方がいいでしょうね。」


トリアージの最中、福本が江本に耳打ちしてきた。江本は小さく頷き、


「県に連絡した上で、警察と消防に伝えてきてくれ。」


医療的見地を持たない警察と消防は完全に指示待ち状態であった。医療従事者が帰っていいと言わないと動けないのが彼らの立場であった。江本や、看護師らも緑タグを付けた患者には、自宅へ帰っていいと促促したがその場を動こうとはしなかった。自分は本当に大丈夫か不安なんだろうか。患者の気持ちを察していたが、いつまで経ってもらちが明かない。それならば警察と消防の力を借りて多少強引でも帰って貰おう。その判断から江本は、福本に指示をした。


 福本が県の了承を貰い、その旨を警察と消防に伝えると、彼らは指示を行動で示しだした。救護所にいた患者らが警察官や消防官の誘導に従い、徐々に動き始める。


少しして、連絡を受けた成田空港の地上スタッフらも誘導の応援に駆け付けた。それとほぼ同時に日赤の救護班の増援や、千葉県医師会の医療班が到着し江本達に合流してきた。


また、東京消防庁の特大型救急車であるスーパーアンビュランスも救護所へ到着。消防隊員らは、医療機関への搬送を待つ黄色タグの患者を車内に搬送する。


江本が指示を出してから約20分。救護所は人員整理が上手くいき、落ち着き始めていた。一次処置も間もなく終わる。患者の数より医療従事者の人員が多くなった現場。江本は周囲を見渡し、DMATの仕事は終わったと判断し、福本へ県庁に撤収していいか指示を仰ぐよう口を開いた。


それを聞き、福本は県庁に電話する。

その時だった。帰宅の途につく列から悲鳴が聞こえてきた。江本は瞬時に反応し、気付けばその場に駆けていた。周囲の看護師や医師も駆けていく。


江本が駆け付けると40代男性が胸を抑えながらその場に倒れていた。顔には冷や汗を搔いている。目立った外傷はない。頭から足先まで全身を確認し、江本は内臓系だと瞬時に判断した。


「大丈夫ですか?返事出来ます?どこか痛いか言えますか?」


男性の耳元で、声のボリュームをあげてゆっくり問い掛けた。男性は胸を抑えながら答えない。顔は痛みに耐えるようにしわが寄っていた。江本はリュックサックからパルスオキシメーターを取り出し、

男性の指にはめ血中酸素濃度と脈拍を測る。数値が低すぎる。


「お父さん!背中痛い?」


江本の質問に男性は何度も頷いた。外傷性肺気胸。そう判断した。外傷性肺気胸。それは事故や転落、刺傷などの胸部への衝撃によって肺が損傷し、胸腔内に空気が漏れて肺が縮む病態である。治療としては胸腔ドレーンという管を直接胸部に刺し、胸腔の空気を抜くことで一時的な処置となる。


「外傷性肺気胸疑いの患者1名。40代男性。念のため血圧測って!誰か胸腔ドレーン持ってる?」


本当に気胸なら、血圧が極端に下がっているはずだ。疑念を確信に変えるため、近くにいた看護師らにそう問い掛けた。江本の部下である看護師がそれに応え、即座に血圧を測りだす。


「上が80!下は52!」


確信に変わった。すぐに胸腔ドレーンを使用した処置をしなければこの人は助からない。江本は直観で判断し、他の看護師から胸腔ドレーンを受け取った。


「お父さん!ちょっとチクッとするよ!我慢してね!すぐ楽になるからね!」


優しくそう語り掛け、近くにいた福本に対して、


「この人は大学に運ぶ!ドクヘリにエンジンスタート伝えて!ストレッチャー持ってきて!大学にも受入準備の連絡を!」


早口で指示を出した。福本は勢いよく返事をし、ドクターヘリの元に駆けていく。

後は、胸腔ドレーンで処置をするだけ。江本は慎重に且つスピーディーに狎れた手つきで処置を始めた。それから1分足らず。処置は終了した。苦しそうな表情を浮かべていた男性であったが、処置が終わるとその表情は和らいでいった。それから少し遅れて、看護師と福本がドクターヘリに常備してあるストレッチャーを持ってきた。江本の部下以外にもその周囲にいた他の医療班達の力も借りて、男性をストレッチャーにのせた。


ドクターヘリは、福本が伝達してすぐエンジンスタートを始め、ストレッチャーをヘリのもとまで持ってきた時にはすでに離陸準備は完了していた。


6人掛かりでヘリにストレッチャーを載せ、江本達はその後すぐに乗り込んだ。機長はそれを確認して、


「成田管制から離陸許可出てます。関東医科大学へ向け離陸します。」


事務的な口調で機内の全員に伝えた。それと同時にローターの回転数が一気にあがる。エンジンも甲高い音をあげた。浮遊感。全員が感じた。飛んだな。江本は心の中で感じながら、


「バイタルチェックは常にお願いします。」


看護師らにそう指示した。そして、遠くなる景色を横目に見ながら江本は小さく息を吐いた。

 関東医科大学へ搬送後、男性は一時ICUに入ったが、無事に回復した。成田空港で発生した航空機胴体着陸事故。電気系統の故障により引き起こされたと後に国土交通省の事故調査委員会は決定づけた。この事故の死者は奇跡的にいなかった。着陸に伴う激しい振動によって重傷者は13名となったが、初期対応がよく、全員が普通の生活に戻れた。しかし、救護所の運営に課題があったことから、千葉県はこの事故を機に、災害医療マニュアルの見直しに入ることになった。


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