第一章「おはよう、俺の顔に剣が生えてた」
世界に魔王の影が忍び寄っている、らしい。
らしい、というのはユーダの実感がまったくないからだ。エルミナ村には行商人が月に一度やってくる程度で、都の情報は「なんか魔王がどうとか言ってたよ」くらいのふんわりした形でしか届かない。
村人たちは「勇者が現れるだろう」と言い、「聖剣が見つかるだろう」と言い、それから畑に戻って大根を抜いた。
ユーダも概ねそんな感じだった。
魔王より、自分の右頬のほうが、ずっと深刻な問題だった。
ユーダが十歳のとき、祖父のジードは死んだ。
ジードは村外れの小屋に一人で暮らしていた変わり者の老人で、村人たちからは「元冒険者らしい」とか「昔すごい人だったらしい」とか、そういう曖昧な尊敬を集めていた。ユーダにとっては、ただ大好きなおじいちゃんだった。
毎日のように小屋に遊びに行って、冒険の話を聞いた。魔物の話、遠い街の話、見たこともない料理の話。ジードの話はいつも面白くて、ユーダは夢中になって聞いた。
そのジードが、ある秋の朝、静かに息を引き取った。
前日まで普通に話していた。だからユーダは信じられなくて、小屋の前でずっと泣いた。村人たちが「天寿を全うされた」と言うのを、遠くで聞いていた。
葬儀の前夜、ユーダはジードの枕元に呼ばれた。
老人の目はもう開かなかったが、かすれた声だけは、まだそこにあった。
「……ユーダ」
「じいちゃん」
「お前の、右頬の……ほくろ」
ユーダは反射で右頬に手を当てた。生まれたときからある大きなほくろ。コンプレックスの、そのもの。
「……うん」
「そこに生えてる毛、あるだろ」
「ある」
「絶対に……抜くな」
なんで、と聞こうとした。でも続きは来なかった。
それがジードの、最後の言葉だった。
理由は何も、分からなかった。
ユーダはその日から六年間、ほくろの毛を抜かなかった。意味は分からなかった。ただ、じいちゃんとの最後の約束だから——それだけで、十分だった。
毛は少しずつ、育っていった。
そして十六歳の秋。
ユーダは朝、目を覚ました瞬間に、右頬の違和感を感じた。
いつもと違う。重い。硬い。
眠い目をこすりながら壁の鏡を覗いて——固まった。
「…………」
ほくろがあった場所に、金属があった。
黒い点の中心から、小さな金色の突起が顔を覗かせている。大きさにして一センチにも満たない、ごく小さな塊。形は——そう、まるで剣の柄の、先端のような。
「…………」
ユーダは目をこすった。
金属はあった。
頬をつねった。
「痛っ」
金属はあった。
指でそっと触れた。ひんやりとした感触。紛れもなく金属だった。つまんで引っ張ってみると、頬の奥から、ずっしりとした重みが伝わってきた。
根っこがある。
これは、頬の奥まで続いている。
「……なん、で……」
言葉にならなかった。六年間育て続けたほくろの毛が、なぜか金属になっていた。
ユーダはしばらく鏡の前で固まっていた。
そこに——部屋が、光った。
眩しい、と思った次の瞬間、部屋の中に人が立っていた。
女だった。
年齢はよく分からない。二十代にも見えるし、もっと上にも見える。腰まである金色の髪。透き通るような白い肌。目は薄い紫色で、どことなく焦点が定まっていない。纏っているのは白と金の豪奢な衣。
どこをどう見ても、普通の人間ではなかった。
女はユーダの顔を見て——右頬の金属の突起を見て——
「あっ」
と言った。
「……あっ?」
「出ちゃいましたね」
「……誰ですか」
「リュミエルといいます。女神です」
ユーダは三秒沈黙した。
「……女神」
「はい」
「本物の」
「はい」
「俺の部屋に」
「はい。あの、ちょっとお話があって」
ユーダはもう一度鏡を見た。金属の突起。それから女神。それから金属。
「……俺、まだ夢見てる?」
「現実です。ごめんなさい」
謝られた。
嫌な予感しかしなかった。
リュミエルの説明は、要約するとこうだった。
世界に魔王が復活しようとしている。対抗するため、聖剣を世界に顕現させる必要があった。聖剣は本来、古代の聖遺跡の最深部に安置される予定だった。
予定だった。
「設計図を……少し、間違えまして」
「少し?」
「ユーダさんのほくろに、刺さりました」
「少しじゃない!!」
ユーダの叫びが、朝の部屋に響いた。
リュミエルは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ほくろに生えていた毛が、聖剣の柄に変化してしまって……。今出ているのはほんの先端部分だけです。でも、世界各地の聖遺跡を巡れば、遺跡の聖なる力を吸収して、聖剣がどんどん外に出てくるようになります。全ての遺跡を巡り終えれば、完全に抜ける状態になるはずです」
「……ちょっと待って。遺跡を全部回るまで、俺の顔にこれが刺さったままなの?」
「そうなります」
ユーダは右頬の金属の突起を触った。ほんの少し飛び出た、剣の柄の先端。今はまだ小さいが——遺跡を回るたびに出てくるということは。
「……旅の終わりには、顔から剣がどんどんはみ出した状態で旅してるってこと?」
「そう……なりますね」
「やだ!!!」
「本当に申し訳ありません」
「謝って済む話じゃない!」
ユーダは頭を抱えた。それから、ふと気になったことを聞いた。
「……なんで俺のほくろだったの。世界中にほくろなんていくらでもあるでしょ」
「それは……その、私にもよく分からなくて」
「女神なのに?」
「設計図を間違えたのは確かなんですが、なぜよりによってユーダさんのほくろに……という部分は、私にも」
「つまり完全にランダム?」
「……おそらく」
「最悪だ」
ユーダは盛大に溜め息をついた。
何の必然性もない。ただの事故。じいちゃんの遺言も、六年間守り続けたことも、この金属とは何の関係もない。
ただの、巻き込まれだった。
「……なんで俺がやらなきゃいけないの」
「聖剣が顕現した以上、遺跡を巡って力を吸収させなければ、聖剣は不安定なままになります。そのまま放置すると……頬から先端だけが刺さった状態が、永遠に続くことになります」
ユーダは鏡を見た。
頬から一センチにも満たない、金属の突起。
「……それはもっと嫌だ」
「でしょう」
「分かった。行く。遺跡、全部回る。この剣、絶対抜いてやる」
言ってから、ユーダはリュミエルをじろりと見た。
「……一個だけ言わせて」
「はい」
「全部あなたのせいだからね」
「……はい。本当に申し訳ありません」
リュミエルはしゅんと肩を落とした。ユーダは溜め息をついて、荷物をまとめ始めた。
出発の朝。
ユーダは村を出る前に、一度だけ村外れを振り返った。
草に埋もれかけた、小さな小屋。じいちゃんが暮らしていた場所。今はもう誰もいない。秋風が、草を揺らしていた。
じいちゃん。
毛を抜くなって言ってたけど、結果的に剣になったよ。俺の顔から。意味、あったのかなあれ。
答えはない。ただ、大好きだったあの顔が、記憶の中で笑っている気がした。
——行ってくる。
ユーダは右頬の金属の突起を、そっと指で触れた。ひんやりとした感触。
これが、じいちゃんの遺言の、答えだったのかもしれない。意味は分からないままだけど。
それでも——守って、よかったと思う。
なんとなく、そう思った。
ユーダは前を向いて、歩き出した。
顔に剣の柄が刺さったまま、エルミナ村を後にした十六歳の少年の旅が、こうして始まった。




