第25話:怖いから
オフィスには、もう誰もいなかった。
蛍光灯の白い光だけが、無機質に机を照らしている。
帰るタイミングを失ったまま、私は席に座っていた。
カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。
「……まだ、帰らないんですか」
小林だった。
振り返らなくても分かる声。
「……ええ」
それだけ返す。
会話を終わらせるつもりだったのに、小林は動かなかった。
「社長」
少しだけ、間を置いて。
「私、謝らないといけないことがあります」
その言葉に、胸の奥が小さく反応する。
でも、何も言わない。
「大学の件」
空気が、変わる。
「……あれ、私が流してました」
視界が、揺れた気がした。
知っているはずのことなのに、改めて言葉にされると、重さが違う。
「妹から聞いて……そのまま、社長に」
小林の声は、いつもと同じだった。
仕事の報告みたいに、淡々としている。
「……そう」
それだけ、絞り出す。
本当は、もっと言うべき言葉があるのに。
出てこない。
「止めませんでした」
続く。
「むしろ、続けました」
逃げ場が、削られていく。
「社長が欲しがってたから」
その一言で、全部が自分に返ってくる。
息が、詰まる。
「……違う」
反射的に、否定が出る。
でも。
「違いますか?」
すぐに、返される。
逃げられない。
「私が渡さなくても、別の方法で知ろうとしましたよね」
何も言えない。
「だから――」
一歩、近づく気配。
「これは、私だけの責任じゃないです」
胸の奥に、わずかな安堵が生まれる。
でも。
「社長の選択でもありますよね」
その安堵を、踏み潰すみたいに。
言葉が落ちる。
「……っ」
言い返せない。
「監視じゃないって、言ってましたよね」
静かに、続く。
「じゃあ、なんですか?」
答えられない。
分かっているのに、言葉にできない。
「……怖かったんですよね」
小林の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「失うのが」
図星だった。
「だから、全部知って安心したかった」
違う、と言えない。
「でも」
一拍。
「それって、信頼じゃないですよね」
完全に、止めを刺しに来ている。
逃げ場は、もうない。
「……私、間違えたのよ」
やっと、出た言葉。
でも。
「知ってます」
僅かに視線が揺れた。
優しさも、慰めもない。
「問題は、その後です」
心臓が、強く鳴る。
「間違えたあと、何もしてませんよね」
息が止まる。
スマホが、頭に浮かぶ。
伏せたままの画面。
「見てないんですか」
見透かされたみたいに。
「……」
「見ない理由、なんですか」
答えられない。
「怖いからですよね」
全部、分かってる声だった。
「拒絶されるのが」
図星を抉られる。
「でも、それ」
小さく、息を吐く音。
「相手のためじゃないですよね」
完全に、終わりだった。
言い訳が、できない。
逃げる理由も、もうない。
指先が、机の縁を強く掴んでいた。
気づいたときには、白くなっている。
「……どうすればいいの」
やっと、零れる。
助けを求めるみたいに。
でも。
「私に聞かないでください」
即座に、切られる。
「それ、自分で決めることですよね」
突き放す。
でも、それが正しい。
小林は、それ以上何も言わなかった。
ただ一言。
「逃げるか、向き合うか」
それだけ残して、踵を返す。
ヒールの音が、遠ざかる。
だが出る寸前、音が止まる。
「……返信、遅いと本当に終わりますよ」
遠いのに耳元で言われた気がした。
オフィスに、また静寂が戻る。
机の上。
スマホが、そこにある。
さっきと同じはずなのに。
触れれば、何かが終わる気がした。




