第21話:氷の音
梅雨が明けて、空には青空が広がり始めていた。
「このプロジェクトの進捗はどうなってるの?」
「す、すみません!今すぐ資料を送ります!」
いつものオフィス。
いつもの顔触れ。
いつもの空気。
でも、明確に何かが違った。
「社長、お疲れ様です。次は15時から会議です」
「わかったわ、ありがと」
それだけ言うと、私は少し遅い昼休憩に入る。
背筋が伸びた、綺麗な歩く姿。
鏡に映したような自分が、どこか他人に見えた。
オフィス内にある休憩室には誰もいない。
「はあ……」
中に入ると重いため息が出た。
重すぎて、今にも膝から崩れてしまいそう。
仕事をしている間だけ、考えなくて済む。
それ以外の時は……考えてしまう。
窓際のいつもの席。
座ると思い出すのは、休憩のたびにドキドキしながらメッセージをやり取りした、彼との記憶。
無意識にスマホを取り出し、彼のアイコンをタップしそうになる。
でも、押す前に指はピタリと止まる。
――見たら、戻れなくなる。
何に、とは考えない。
考えたら、押してしまいそうだから。
通知は、増えているはずだ。
あの日から、一度も開いていないトーク画面。
指先に、微かな震えが走る。
触れればいいだけなのに。
それだけで、届くのに。
……ダメ。
そっと、スマホを裏返す。
私はまだ……彼と繋がっている。
彼からの拒絶を確認しない限りは……。
コンコン、とドアがノックされる。
「社長、先ほどの資料ですが――」
「ええ、今行くわ」
言葉は自然に出た。
何も問題はない。
……何も。
今日もオフィスに夕陽が差し込む。
部下達も業務を終えて、帰る支度を始めている。
私はみんなの様子を見ながら、手は止まっていた。
「社長、お先に失礼します」
「お疲れ様」
最後のひとりを見送くっても、私は座ったまま。
……立てない。
立ってしまったら、帰るしかなくなる。
――あの部屋に。
もし、彼が戻ってきていたら。
もう、逃げられない。
「社長、久しぶりに飲みに行きませんか」
俯く私に声が落ちてくる。
みんな帰ったと思ってたのに、小林だけが残ってた。
「……」
彼女の顔は飲みに誘う顔とはかけ離れていた。
オフィスを出た私たちはタクシーを拾い、たまに通っていたバーにやってきた。
お互いにビールを頼み、静かに乾杯。
話すことは仕事のことばかり、でも。
彼女のペースがどこか早い。
飲みかけのグラスをゆっくり置くと、小林が僅かに体を向けてくる。
「社長、あの……」
「なに?」
私はつまみを口に運びながら、視線は前を向いていた。
「……いえ、なんでもないです」
つまみを2度口に運ぶ間。
彼女は姿勢を前に直すと、飲みかけのグラスを空けた。
仕事とは違う、プライベート特有の微妙な空気。
カウンターに伏せて、置かれたスマホが震える。
隣の小林に気付かれない程度に私の肩が震えた。
スマホに触れる。
画面に表示されたのは、彼の名前。
私は息を止めて、スマホを伏せた。
「見なくて、いいんですか」
彼女は空になったグラスを掴んでいた。
「……」
グラスの氷が溶ける音が響いた。
その音は静かに儚い、壊れるような響き。
新しいグラスが運ばれてくる。
小林は何かを言いかけて、グラスに口をつけた。
代わりに漏れたのは、空気のような私の呟き。
「……私、間違えたのよ」
それ以上、言葉は続かなかった。
スマホは、まだ震えていた。
――なのに、私は触れなかった。
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