第42話:聖域
朝の光が部屋に差し込む。
昨日の退院から一夜明け、家の中は静かだ。
松葉杖を手に、階段を座りながらゆっくり降りる。
昨日までは車椅子にほとんど頼っていたけれど、うちはバリアフリーでもなければ、特段広いわけでもない。
なので今日は少しだけ自分の力で動いてみる挑戦だ。
「おはよう、智也。ちゃんと起きられた?」
すずの声に振り返ると、彼女は台所で母さんと朝食の準備をしていた。
笑顔は変わらず、でもどこか少し眠そうだ。
押し掛け女房から通い妻になった影響かもしれない。
「おはよう…うん、今日は松葉杖で挑戦してみようと思って」
不安が胸の奥をぎゅっと締め付ける。
事故以来、まだ体は完全じゃない。
それでも、少しずつ歩く感覚を取り戻したい。
「じゃあ、見守るね。無理しないで」
彼女の声には安心感がある。けれど同時に、「自分でやらなきゃ」という意識が背中を押す。
ゆっくりと歩き出す。
最初の数歩はぎこちなく、廊下の床に足を置くたびに体が揺れる。
それでも、すずが横で軽く手を添えてくれると、心も少し安定する。
何度か転びそうになりながらも、少しずつ歩幅が広がる。
息が上がるけど、これは自分の力で前に進んでいる証拠だ。
朝食後、両親は仲良く仕事に行ったので二人でテーブルを囲む。
トーストと卵、コーヒーの香りが部屋に漂い、なんでもない日常が特別に感じられる。
「昨日、私が帰った後もバイクを見てたって聞いたわよ」
すずが柔らかく微笑む。
その視線に、少し照れくさい気持ちが混じる。
「うん…直してもらったおかげで、すずと出掛けられると思って」
彼女の手がテーブルに触れ、指先が軽く触れ合う。
事故前の日常に戻るだけじゃなく、二人で新しい一歩を踏み出している感覚があった。
午後、外の空気を吸うために、キャンプの予行練習をした庭に出る。
日差しは穏やかで、風が心地よく頬を撫でる。
「智也、少しずつでも歩けるようになったら、またカフェにも出てみようね」
その言葉に、自分の心が少し軽くなる。
怖さや不安はまだあるけれど、すずが隣にいる限り、挑戦できそうな気がする。
夕方、松葉杖を手にリビングを歩き回る。
家具に手をかけながら、少しずつ体が慣れていく感覚。
小さな成功が、嬉しさとなって胸に広がる。
すずはそんな俺をそっと見守りながら、時折声をかけてくれる。
「大丈夫、焦らなくていいよ」
その言葉が、俺の心に静かな力をくれる。
彼女が帰った後、ベッドに横たわる。
今日一日の疲れはあるけれど、確実に前に進めたことが嬉しい。
事故で止まった時間はまだ完全には戻らないけれど、今日という一歩が未来へ繋がっていく。
明日も、少しずつ、自分の力で歩いてみよう。
自宅に戻ってから数日が経った。
そんな昼下がりにリハビリを終えて、少し汗ばんだ体のまま、俺は自室の前で立ち止まった。
「そういえばさ」
「うん?」
「すず、俺の部屋入ったことないよね」
一瞬、空気が止まる。
すずの指先がわずかに揺れた。
「……ない、わね」
入院中は病室。
家ではリビング。
二人きりになることはあっても、“彼の部屋”という空間は別だ。
特に男女比が偏った世界では正に聖域。
「見る? そんな面白いもんないけど」
あっさり言う智也に対して、すずの鼓動は明らかに速くなる。
これが男女比1:100の世界のせいなのか。
それとも、ただ“好きな人の部屋”だからなのか。
たぶん、後者だ。
「……じゃあ、お邪魔しようかしら」
ドアが開く。
整頓された部屋。
シンプルなベッド、机、本棚。
壁にはバイク雑誌と、スーパーカーの写真。
思ったより、ちゃんとしてる。
「散らかってなくて良かった」
「俺そんなにだらしなく見える?」
「ちょっとだけ」
軽口を交わしながら、すずは一歩踏み入れる。
ドアが閉まる音。
――二人きり。
リビングとは違う。
家族の気配もない。
病室とも違う智也の完全な生活圏。
急に、静かすぎる。
「座る?」
智也がベッドに腰掛ける。
すずは一瞬迷ってから、少し距離を空けて隣に座った。
マットレスが沈む。
距離、拳二つ分。
でも、近い。
智也は特に気にした様子もなく、机の上の写真を手に取る。
「これ、事故る前に撮ったやつ。初めて遠出した日」
自然な横顔。
無防備。
女性に見られることに慣れている男の余裕。
それが、逆にすずの心をざわつかせる。
「ねぇ、智也」
「ん?」
「女の人に囲まれたりとか、慣れてるの?」
「まあ、子どもの頃からずっとこんな感じだし」
肩をすくめる。
「別に減るもんじゃないし」
あっけらかん。
独占欲を刺激するには十分すぎる答え。
「……そう」
少しだけ拗ねた声が出た。
「なに?」
「なんでもない」
言えるわけがない。
“減らなくても、私は嫌”なんて。
その時。
ぐら、と智也の体が傾いた。
「おっと」
とっさに支える。
松葉杖を置いていたせいで、バランスを崩したらしい。
結果――
すずの胸元に、智也の顔が近づく形になる。
呼吸が、触れそうな距離。
「……ごめん」
「べ、別に」
鼓動がうるさい。
聞こえてしまいそう。
智也は普通に体勢を戻す。
病室ではあんなに慌ててたのに、今は普通に戻ってる…。
それがまた、悔しい。
「すず、顔赤くない?」
「赤くない!」
「暑い?」
「暑くない!」
智也は少し笑う。
「そっか」
それ以上、追及しない。
その優しさが余計に胸にくる。
立ち上がろうとした智也の手を、私は無意識に掴んでいた。
「……え?」
「……あ」
数秒の沈黙。
「ここ、私以外入れたことある?」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
智也はきょとんとする。
「ないよ?」
「……ほんと?」
「親くらい」
それを聞いた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
単純だと自分でも思う。
「じゃあ、初めてなのね」
声が少し低くなった気がした。
上目遣い、可愛いのにまっすぐ。
「…うん。すずが」
さらっと言う。
破壊力が高い。
すずは小さく息を吸う。
「……光栄だわ」
指先に、まだ彼の体温が残っている。
この部屋は、彼の世界だ。
そして今、その中に自分がいる。
それだけで十分、特別だった。
「次は、もう少し近く座ってもいい?」
優しく服の袖を摘みながらぽつり、と零す。
智也は少しだけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「すずなら構わない」
今度は、距離が拳一つ分になる。
手がいつ触れてもおかしくない間隔。
近付いたからこそ、直視出来ない。
鼓動は、まだ速い。
でもそれが、嫌じゃなかった。
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