31話:夢
見慣れない天井、白色で統一された綺麗な部屋。
隣から聞こえてくるのは自分じゃない、安らかな寝息。
誰が寝ているのか覚えている。
彼女の髪は長く、美しい。
彼女の匂いは記憶を呼び戻す。
彼女の寝顔は非日常を感じさせた。
彼女の体温は俺たち2人の距離を教えてくれる。
そっと視線を横に固定する。
白いシーツに溶け込むように、彼女は静かに眠っている。
長いまつ毛が影を落とし、規則正しい呼吸が胸を小さく上下させていた。
夢を見ているのだろうか。
わずかに緩んだ唇が、何かを呟きかけては消える。
吸い込まれそうな程……。
触れそうで、触れてはいけない距離。
もし、触れたらどうなるのだろう。
互いの呼吸だけがその距離を測っている。
なのにその温もりが、やけに遠く感じる。
ただ一つ、確かなことがある。
この匂い、この体温、この静かな朝の光景。
それらは誰にも邪魔されない、「2人だけの時間」。
カーテンの隙間から差し込む光が、彼女の髪を淡く金色に照らす。
その黄金の輝きに、胸が締めつけられる。
失いたくない、と強く思う。
彼女も俺のことをかけがえのない人だと思ってくれてるのか…。
彼女の指が、無意識のうちにこちらを探るように求めるように動く。
そっと握り返すと、彼女の眉がわずかに緩んだ。
どんな夢を見ているのか。
指先が絡んだまま、彼女は小さく息を吸い込む。
まぶたがかすかに震え、ゆっくりと開いた。
朝の光を映した瞳が、まだ夢と現実を淡く、彷徨っている。
「……おはよう」
少し恥ずかしそうな掠れた声が、静かな部屋に溶ける。
その一言だけで、胸の奥に溜まっていた不安がほどけていく。
「どんな夢、見てた?」
そう尋ねると、彼女は少しだけ考えるように目を細めた。
「……あなたが、いなくなる夢」
冗談めかして笑おうとした唇が、うまく形を作れない。
その言葉が、胸を刺す。
失いたくない、と願ったのは自分だけじゃなかったのかもしれない。
「どこにも行かないよ」
そう言って、ほんの数センチの距離を埋める。
今度は、触れてもいい距離。
彼女に現実の温もりを届ける。
額に唇を落とすと、安心したように目を閉じた。
「……よかった」
その呟きは、まるで祈りのようだった。
白い天井も、静かな光も、規則正しい鼓動も。
すべてが、静謐な時間。
夢の時間は、まだ終わらない。
禁断の果実を求め指先を握り返した瞬間、彼女のまぶたがゆっくりと開いた。
まだ夢の名残を映した瞳が、焦点を探すように揺れて――やがて、俺を捉える。
「……起きてたの?」
寝起き特有の、ゆっくりとした声。
「今、起きたとこ」
本当はずっと前から目が覚めていたけれど、そんなことは言えない。
彼女は小さく笑って、握られたままの手に視線を落とす。
離すべきか迷う沈黙。
でも、どちらも動かない。
言葉にしていない関係は、こういう瞬間に試される。
「素敵な夢、見てた気がする」
「どんな?」
彼女は少しだけ額に触れて、照れたように笑う。
「……言わない」
視線は繋がった手を見たまま、少しだけ頬が赤い。
その理由を聞く勇気は、まだない。
「ねぇ、私の事……"すず"って呼んで」
彼女からの可愛いお願い。
「すず……」
「何?……智也」
病室内に僅かな色が付き始める。
その色を噛み締め、熱に変えるように…。
看護師さん達の歩く気配。
朝食を運ぶ台車の音。
2人だけの世界が2人のいる世界に変わる。
惜しむようにすずは俺に抱き着き、動かせる片手で抱き返す。
1日の摂取量を超える、すずの香りと体温を取り込みながら。
やがて、彼女が小さく顔を背け、微笑む。
「ちょっと、支度してくるね」
その声は穏やかで、でもどこか名残惜しそうだった。
「行ってらっしゃい、すず」
「うん!」
彼女はそっとベッドを離れ、白いシーツに残る温もりを置き去りにして、病室を出ていった。
ドアが閉まると、静けさが再び戻る。
シーツに残る温かさが心を和らげる。
けれど、その静寂は短く、今度は現実の足音が近づいてきた。
病室のドアがノックされ、俺は思わず顔を上げた。
「おはよう、智也!」
声の主は、幼馴染だった。
少し背は低く、柔らかい笑顔。
年下の元気そうな様子が、病室の静けさを少しだけ明るくする。
「やっと来れた……大丈夫だった?」
幼馴染がそっとベッドの横に立つ。
すずとのあの静かな朝の余韻がまだ残っている。
手の感触、温もり、胸の奥の安心感。
しかし、目の前の幼馴染は違う温かさを持っていた。
「ああ、大丈夫だよ。ありがとう」
声は柔らかくても、どこかぎこちない。
俺の心は、まだすずの記憶と触れ合ったままだった。
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