翅を失った蝶は天色の記憶に囚われるのか
本編はいよいよラストです。
夏の始まり、ブンデンベルク辺境伯領では結婚式が行われた。
領内には花嫁が好きだという白百合が咲き乱れる。
花婿は辺境伯家子息、金精霊師でもあり隣国との戦いで勇猛果敢な戦いぶりから金の獅子とも呼ばれていた男。
そして花嫁は平民出身でありながら、辺境伯領所属白精霊師としてさまざまな功績を上げてきた美しい女性だった。
花嫁を溺愛する花婿の希望により最短で行われた結婚式は注目を浴びて、王族だけでなく、他国からもお祝いが届くほど評判であったらしい。
そして夜中まで続いた宴会の最中、白精霊師がこの日のためにと用意された術式を展開すると夜空に火と光による大輪の花が咲いた。
他国では花火とも呼ばれる夜空を彩る大輪の花は、辺境伯領でのみ見られる夏の風物詩となり、観光客が増えて領の財政を潤わせたという。
隣国からの侵攻も結婚と同時期に発表されたワムシャリア王国の王族で唯一婚約者のいなかった第二王子と隣国の王女が婚約を結ぶ際に不可侵条約が結ばれて、辺境伯領は一時的なものであっても貴重な平穏を得たのだった。
そして、結婚式から五年の月日が経った。
ハンナ=ブンデンベルクは白いローブを翻す。
飛行術式を切って地上に降り立つと、軽く呼吸を整えた。
これで今日の業務は終わり。
個人的な自由時間が長く取れそうで、足取りも軽い。
一時はどうなることかと思っていたけれど雀の羽を持つ翼人の活躍により思いのほか農地の開拓が進んでいた。
思っていたよりも作業を補助する時間が少なく済んで助かったわ。
「おかあさま!」
「ルーカス」
本を抱えて玄関から飛び出してくる息子の姿に彼女の頬がゆるむ。
金の髪に、黒の瞳。
両親の色を平等に受け継いだ自慢の息子だ。
自由を絵に描いたような子で、好奇心旺盛。
礼儀作法や勉強も始めているけれど、どちらかといえば体を動かしているほうが好きみたい。
四歳になっておしゃべりが上達して行動範囲も広がったから、侍女や使用人達を振り回している。
ああ、使用人達の疲れ切った顔といったら……。
あとで回復薬を差し入れしようと心に決めてハンナは本ごと飛び込んできた息子を抱きしめた。
「その本はどうしたの?」
「おじいさまが買ってくれたよ!」
ハンナの眼前に掲げるようにして自慢げに本をかざす。
昆虫の図鑑だろうか?
各国にいるさまざまな虫が種類ごとに分けられて、詳細な絵までついている。
義理の父も母もこの子に夢中で、暇を見つけては隠居先の別邸からちょくちょく会いにきていた。
これは今日持参したお土産のうちの一つなのだろう。
ハンナからすると、きれいな絵もあるけれど、グロテスクな幼虫の描写もあってそれはちょっと苦手だ。
男の子はこういうものが好きなのねと、興味深く手元を覗き込む。
「せっかくだからお部屋に行って一緒に読みましょうか?」
「ならば私も一緒に行こう」
目の前からルーカスが本ごと消えて思わず顔を上げると、そこには昨年領主の座を引き継いだアレク様がいた。
王子様然としていたころよりも精悍さを増し、大人の色気と渋みが備わって一層素敵な男性になっている。
「お仕事はもういいの?」
「父と母が来ていると聞いて、急いで終わらせてきた。急ぎでないものは明日処理するよ」
「お手伝いできるものは回してくださいね」
「たいしたものは残してないと思うから、判断できるものはやってみてごらん? 君の勉強にもなるだろう」
「ありがとうございます!」
書類仕事も少しずつ任せてもらえることが増えてきた。
抱き上げられたルーカスは、肩の上の高さに目を丸くしながら、きゃっきゃとはしゃいでいる。
こうして比べると二人の顔立ちはそっくりだから、親の贔屓目を抜きにしてもさぞかし美形に育つだろう。
そしてもうひとつ、この子が引き継いだもの。
アレク様はルーカスの黒い瞳の奥に私と同じ星のような輝きがあると教えてくれた。
計測器がなくても感じられる力の量からして、たぶんルーカスは白。
アレク様の後継がマイラであるとしたら、私の後継者となるのはこの子だ。
どれだけ王家が白の力を欲しがっても、嫡子であるルーカスを奪うことはできない。
この子を次代の管理者と定めたのは太古の神々であり、許されるわけがなかった。
「そういえば、新しい編成での訓練は上手くいきました?」
「なかなかいい仕上がりだったよ。多様な人材が集まって古参の兵士も良い刺激を受けているみたいだ」
「マイラの様子はいかがですか?」
「さすが金精霊師だけある。あの歳でもう戦闘術式のいくつかを使いこなしているよ。それに度胸もあるし、性格は私以上に苛烈だ」
「王都でずいぶんと鍛えられたようですから」
「むしろやりすぎないかと心配になるよ。味方には甘く優しいのに、極端すぎる」
「ふふ、そういうところはアレク様と一緒ね」
廊下を三人並んで歩く。
辺境伯領は、ずいぶんと雰囲気が変わり、人の往来が絶えない賑やかな土地へと姿を変えていた。
例の一件で爵位を落としたジギリス家の領地から安住の地を求めて人が流れ込んできたこともあって、農地の開拓が進み、さらに自然の豊かさを生かした観光地として人気が高まっているからだ。
増えた収入で領内の利便性の向上と治安維持を目的に街道の整備や施設の充実が図られ、辺境伯領民の生活の質はゆるやかに向上している。
まだ問題は山積みだけれど、人々の笑顔が増えていることから手応えが感じられて嬉しい。
ハンナは遠くから聞こえてくる人々の賑わいに目を細めた。
目的地であるルーカスの部屋に到着すると早速図鑑を広げる。
「あ、これマイラの翅と同じだ!」
甘えた様子でアレク様に寄りかかっていたルーカスが瞳を輝かせて図鑑のとあるページを指差した。
そこには世界各国のさまざまな蝶が描かれている。
マイラの背にある翅はハンナも何度か広げたところを見たことがあったが、たしかによく似ていた。
翅の縁は黒で、目の覚めるような黄色の鱗粉にわずかな赤や青の模様が混じる。
色鮮やかで幾何学的な柄はマイラの凜とした華やかな雰囲気によく似合っていた。
気を使ったアレク様がごく自然に蝶のページをめくろうとするのをやんわりと押し留める。
こんなに嬉しそうなのだ、かわいそうだわ。
私ならもう大丈夫。
あわただしい日常に紛れてあのころの記憶はずいぶんと遠くなっていた。
「おかあさまは、どの翅が好き?」
だから我が子が無邪気に聞いてきたとしても、全然平気。
そうね、と言いながら目的の翅を図鑑で探す。
あ、あった。
「おかあさまは、この翅よ」
その翅を選んだのは、好きというよりもっと単純な理由。
元々自分の背にあった翅の色柄と同じものを選んだだけだ。
指した先に描かれていたのは、雨が多く気温の高い地域で多く見られるという希少な蝶。
腹面は茶色の地味な色であるけれど、背面には輝くばかりに美しい天色を持っている。
説明によると飛んでいる姿は翅の明暗により点滅しているように見えるため、より人目を惹きつけるのだという。
懐かしさに、意図せず口角が引き上がる。
この翅が、かつては私の一部だった。
腹面と違い、背面は自分の目では実物を見られない。
湖面を鏡にして見ていたときよりもこうして絵でみるほうが美しい澄んだ青をしているのがわかる。
翅は失われたとしても、この青だけはきっと忘れない。
慈しむように蝶の絵をなでると、ルーカスは瞳を輝かせた。
「ほんとうだ、おかあさまにピッタリね! だっておとうさまの色だもの!」
ルーカスは私の背に翅があったことを知らない。
もう少し大人になってから教えようとアレク様と話し合ってそう決めたから。
だからアレク様の色を選んだという子の言葉に驚いた。
会話の流れで、アレク様と視線が合う。
たしかに見比べてみれば彼の瞳の色は私の背にあった翅の青色とよく似ていた。
似ているというよりも、寸分違わぬ同じ色。
たとえば夜会で夫婦や婚約者同士が互いの色を纏うことはよくあることだし、私がアレク様の青をドレスに取り入れたように、アレク様も日常的に黒を身につけている。
でも、その言い方ではまるで私がアレク様の色を選んで生まれてきたみたいじゃない。
そう思った途端にブワリと顔が赤くなる。
赤みを隠すように、ぎこちない仕草で彼から視線を外した。
するとアレク様も察するものがあったようで、視界の端で彼の口の形が『もしかして』と動いたから仕方なく首を縦に振った。
目を見開いたアレク様の顔も同じように朱に染まる。
いたたまれないような、甘酸っぱい空気が二人を包んだ。
「わあ! おとうさまとおかあさま、お顔が真っ赤ね。仲良し!」
ニコニコとした無邪気な子供の声が追撃してくる。
ああ、おかあさまは恥ずかしくて消えてしまいそうです。
そんな私たちの頭上からテレジアさんのものと思われる救いの声が響いた。
「ルーカス様、マイラがお約束があると部屋の外までお迎えに来ておりますが?」
「あっ、おけいのこのあとに鬼ごっこするって約束していたんだ! おとうさま、行ってきてもいい?」
「……いいぞ? その代わりクライドを連れて行きなさい」
「わあい、クライドも鬼ごっこだよ!」
賑やかな声が遠ざかって、部屋にアレク様と二人取り残される。
失った翅の色なんて今更話すこともないと思っていたのに。
気を使ったアレク様からは翅の色を聞かれたことなんてなかったし、自分からも特に言わなかった。
なんとなく顔をあげると偶然にも視線が重なって、あまりのタイミングのよさに思わず吹き出した。
「第三者からおそろいだと指摘されるのは、なかなか恥ずかしいものがあるよね」
「そうね、これは盲点だったわ」
瞳の青と、青い鱗粉の翅。
私たちは互いの色を、互いの身に宿して生まれ落ちた。
まるで出会うまえから恋をしていたかのような錯覚に囚われる。
アレク様がページをたぐる手を止めた。
「これだけ努力して君を手に入れたんだ。安易に運命という言葉を使いたくはない。けれど、こうして種族まで越えて互いを強く引き合わせるものがあったとすれば、それは偶然が重なっただけだと片付けるには難しいと思わない?」
「ふふ、そうね。まどろっこしいのは苦手だから、いっそもう運命だったということでいいのではないかしら?」
「そうだね。そのほうが単純明快で、しかもより一層魅力的だ」
とろけるように甘い声が耳元で囁く。
互いの顔に浮かぶ赤みは、まだ引きそうもなかった。
「それにしても運命とは残酷なものだね。ただでさえ美しい君が、こんなにも冴えた輝く青まで背負っていた。だから、余計に翼人達は激しい負の感情を抱いてしまったのかもしれない」
ハンナ自身には見えなかった天上の青。
そんな彼女の後ろ姿を見るたびに彼らは見せつけられていたのだ……神に愛されているとしか思えない証を。
生まれ持った優位は越えられないとわかっているからこそ、ハンナを自らの足元に引きずり下ろしたかった。
「翅を役立たずだと扱うことで、彼らなりに運命に抗おうとしたのかもしれないね。でも結局は抗いきれず、運命に逆らった罰として翼や命さえ奪われた。自業自得だと思うし、君にとってはいい迷惑なだけだろう」
神が与えた翅はこんなにも美しいというのに。
アレク様の指先が図鑑に描かれた青い翅を慈しむようになぞる。
直接触れられてはいなくても、愛されているという感覚が伝わってくるような仕草に胸が高鳴る。
「私が見せられたときは君の背に痛々しい傷跡しかなかった。だから無意識に君の翅そのものを忌避していたのかもしれないね。でももしはじめて会ったとき、君の背に翅があったとしても……やはり私は君に恋をしたと思うよ」
きっとそれは、生まれるまえからの約束があるから。
アレク様に、どうしようもなく惹かれていく気持ちに抗えるわけはなかったのだ。
そっと指が絡んで、そのまま強く引かれるとアレク様の胸の内に閉じ込められる。
彼は首筋に顔をうめて、深くため息をついた。
「私と同じ色を持って生まれてきただなんて聞いたら、ますます好きになってしまう。これ以上私を夢中にさせてどうするつもりなのか問いただしたい気分だよ」
「じゃあ、せっかくだし今の可愛らしい金の獅子に似合う鈴でもつけてみようかしら? きっとルーカスは喜ぶと思うわよ?」
「むしろルーカスに付けたいよ。君に似て勇敢だけど、とにかく危なっかしい」
「まあ失礼ね! それに囚われているのは私のほうだと思っていたわ」
「ああ、それもいいかも。そうすれば君は逃げようと思わないだろう?」
だったら、ずっと囚われていて。
アレク様が唇に刻むようなキスを落とした。
目の前には、青の瞳。
今ならわかる。
空に憧れたのではなく、空の果てにずっとこの青を探していた。
『こんなふうに明度の高い鮮やかな青を異国では天色と呼ぶらしいよ』
賢者様の助言は、古き記憶に囚われることなく自由に生きてということ。
……たぶんあなたの思い描いた未来とは違うと思いますが私は幸せです。
金の髪が頬をくすぐって、誘われるように口付けを返した。
「愛しています、だから私にも囚われていて」
「ならば瞳の奥で輝く君の星に誓うよ」
君を愛している。
いつまでも色褪せない青を瞬かせて、金の獅子は微笑んだ。
最後まで、お楽しみいただけたら嬉しいです。ちなみにハンナの翅のイメージはモルフォ蝶、興味ある方は画像を見ていただくと、青のイメージがつきやすいと思います!
今後は余裕があれば誤字の修正と番外編を書けたらいいなと考えております。
お読みいただきありがとうございました!




