外伝 第1話:推しが飛んだ日、俺も飛んだ
「朱雀ー! いけーッ!! 飛べぇーーッ!!」
地鳴りのような歓声と、鼓膜を破らんばかりの怒号が、会場中に鳴り響いていた。
国内最高峰の女子プロレス王座決定戦が行われるK楽園ホール。俺――木村タカシは会場を見下ろすバルコニー席から、自作の巨大な横断幕を垂らしていた。幕には「朱雀セラ」と荒々しく筆書きしてある。俺は赤とオレンジのマフラータオルを振り回し、絶叫していた。
極度の興奮に、喉はとうに枯れ、頭には血が上り、心臓は今にも口から飛び出しそうだ。
リングの上では、若き天才アイドルレスラー、朱雀セラが、宿敵である「女帝」を強烈なジャーマンスープレックスでマットに叩きつけたところだった。
リングが大きく波打ち、会場のボルテージは最高潮に達する。
「飛べ! セラ! 決めてくれぇぇぇ!!!」
タカシの願いが届いたかのように、セラはボロボロの体を引きずりながら、四メートル以上ある金網の最上段へと登り始めた。
彼女の全身から立ち昇る勝利への執念と、レスラーとしての圧倒的なオーラ。凛々しく美しいその姿に、タカシは完全に魅了されていた。
セラが両腕を広げ、天を仰ぐ。必殺の「フェニックス・スプラッシュ」のセットアップだ。
「いけぇぇぇぇぇ!!!」
これが決まれば、勝てる。歴史が変わる。
タカシは思わず身を乗り出した。推しが王座を奪い取る歴史的な瞬間を、一ミリでも近くで、この目に焼き付けたかった。
バルコニー席の冷たい手すりに全体重を預け、惹き込まれるように、前へ、さらに前へと、体を傾ける。
感覚が完全に同期したかのように、タカシは無意識にセラと同じ、両手を大きく広げるポーズをとっていた。
その瞬間だった。
「……あ」
突然の浮遊感。
手の支えを失ったタカシの体は、バルコニー席から真っ逆さまに落下していった。
あまりの興奮に、手すりを乗り越えてしまったのだ。
(やべ、落ち――)
そう思った瞬間、視界の端で、セラが金網のてっぺんから美しく大空へ羽ばたく姿が見えた、ような気がした。
それが、タカシが前世で見た最後の光景だった。
暗闇が津波のように彼を包み込み、タカシの意識は完全に途絶えた。
*
「う、うう……頭が、痛い……」
パチパチと火が爆ぜる音が耳に届く。
タカシはうめき声を上げながら、ゆっくりと目を開けた。
K楽園ホールのコンクリートの床に激突したはずの背中に伝わってきたのは、ひんやりとした泥と石の感触だった。
「ここは……どこだ? 病院、じゃないよな?」
起き上がって周囲を見回す。
そこは、これまで見たこともない中世ヨーロッパのような街で、石造りの古い民家が立ち並んでいた。タカシがいたのは薄暗い路地裏だった。片隅で小さな篝火が音を立てていた。
空を見上げると、どうやら今は夜であるようだった。
そして、そこには奇妙な色の二つの月が浮かんでいた。
「月が、二つ……? これって、まさか……」
タカシは慌てて自分の体を見下ろした。
麻の上着、汚れた木綿のズボン、古びた革のブーツ。ざっと見ると、ファンタジー世界の住人、それも「一般の住人」という感じだ。
自分の体を改めて見ると、心なしか前世の自分より少し若返り、ガタイもよくなっているように見えた。
頭の中に、何かのアニメで見た「異世界転生」の四文字が浮かび上がる。
「俺、異世界に転生したのか……!?」
タカシが混乱していると、目の前に半透明の光の板、ステータスウィンドウのようなものが浮かび上がった。
名前:タカシ
職業:平民
「へい、みん……? なんだこれ?」
タカシは半透明のウィンドウを指でつつく。触れることはできないようだ。指が画面をすり抜ける。
不可解な状況に困惑しながらも、タカシは、どうしても考えてしまうのだった。
「そうだ! セラは……セラはどうなった? 俺のことは、ひとまずいい。セラは……。王座戦は……」
そこへ、頭の中に機械的な音声が響く。
《システム起動……。スキル【狂熱応援】(ファン・シンクロ)が発動しました》
《解説します:スキル【狂熱応援】(ファン・シンクロ)は、心から応援する相手に、その熱量に応じて一時的な身体能力の向上と魔素の活性化を付与します。ただし、自身への効果は皆無です》
異世界転生の定番、チート能力の発動。これで俺も新たな人生が始まるのか……と、独り納得しようとしたタカシだったが、その内容に思わずツッコミが入る。
「いや、オタク特化チートじゃねえか! 異世界でもオタクやれってのか!?」
タカシは路地裏で思わず叫んだ。戦う力は皆無の、ただの「応援専用」の能力。
しかし、その時、タカシの脳裏に電撃のような閃きが駆け抜けた。
ほんの一瞬、しかし、天啓のごとき説得力を伴って、ある確信がタカシの脳内に刻み込まれる。
「朱雀セラは、この世界のどこかに転生している」
俺が落ちたあの瞬間、セラもコーナーから飛んでいた。
もし、あの瞬間に、セラも同じようにこの世界へ飛んでいたのなら……。
さっき発動した謎のスキルのせいか、元々の推しへの情熱ゆえか。そう確信した瞬間、タカシの胸の奥から、前世のどの瞬間よりも熱いものが湧き上がってきた。
「そうだ……セラもこの世界にいる。いるに決まってる! もしいるなら、見つけられないわけがない!」
タカシはぎゅっと拳を握りしめ、二つの月を見上げた。
「待っててくれ、セラ! 俺は必ず、この世界でもお前を見つけ出してみせる! お前がどこで、どんなリングに立っていようと、俺が世界で一番でかい声で、お前の名前を叫んでやる!」
こうして、一人の不運で熱狂的なオタクによる、推しを追う異世界遠征の旅が始まったのだった。




