天命 其の三
三国志の史実と演義の登場人物が出てくる中で、あらゆる策謀が渦巻く中、彼らとどう対峙していくか。
水鏡に濁流と言われた柚の話。
―ガサガサ‥‥―
「誰?!」
背後からの物音に柚は後退りした。
野営の陣は荒涼とした小川の近くに点々としていたため、枯れた草木が侵入者を阻んでいた。
曹軍の心配も無いため、侵入経路になりやすい水辺付近でも番兵を設ければ防げる。大体、大天幕は陣の中心に位置し、その周りを取り囲むように諸侯の天幕が囲んでいるのだ。
自然と人の砦、孔明らしい布陣であった。
「答えないのなら、大声を出すわよ」
闇に潜む影を威嚇しながらも、柚は少しずつ篝火の灯かりが届く所まで移動した。どうやら危害を加えるつもりは無いのか、気配は一定の間をとって彼女についてきた。
やがて月が現れて辺りを照らし出す。
柚の前に現れたのは布を被った女達。
ここが劉備軍の野営場所だと知って身を売りに来たのだろうか。柚は孔明の潔癖な人柄を考えて溜息をついた。
「馬鹿げたことはおやめなさい。この軍ではそういったことは許されない筈だから」
目の前の女達に瑪瑙の腕輪を差し出して諌める。
「何があったかは判らぬが、変わられましたな」
柚の手を取り、瑪瑙を元に戻しながら声をかける人物は男性の声。
「孟徳っ?!生きて、生きていたのね!」
女物の衣装を身に纏った彼に抱きつき、早くこの場を離れるように訴える。孔明に知れれば、皆命は無いのだと。
「ご寵姫殿、落ち着かれよ」
「その声は?!」
久しぶりの仲達の声に、自分が抱きついた人物の正体を思い出す。虎豹騎の筆頭として曹操の従兄弟の曹純子和が仲達に付き添っていたことを。
「ご寵姫殿、曹純子和です。お忘れか?」
曹操の血縁者なのだから間違えても無理はなかったが、声も顔立ちもそっくりな彼は柚を見て安堵した様子だった。
敵陣営まで潜り込んでいるのには訳がある。仲達と孔明は同類。
よって、好敵手に近寄ってその動向を見守れば自然と何処まで計画され、駒を進ませたかを探れるのだ。幸い、彼は北方に出て赤壁を退いていると思われている。
敗走経路は予測し易かったが、どこまで追いつめられたか推測せねばならない。
「仲達、孟徳様は江陵から許昌へ戻られる筈よ」
「ふっ、何処で斯様な兵法を学ばれた?」
如何に草を使おうとも、土壇場の敗走経路など把握することは出来ない。仲達は柚が直隠しにしてきた何かを感じ取っていた。
「私達の故郷よ」
柚はやんわりと含ませた言い方で答えた。
その時、川を渡ってきた人影を見つけて息を呑む。相手も気がついて近づいてきたが、数人の影に足を止めてしまう。
「ユウ、今宵こそ、そなたを迎えに来た」
結城の存在に気が付いた仲達が硬い表情のまま告げる。
一瞬竦んだような気配がしたが、小さな声で細々と『教えてくれた意味が判った』のだと発せられた。迷いのある声に柚は『甘すぎる』と切り返す。
結城の悩んでいる事は自分も経験したもの。
天幕で全てを見た結城は、孔明の智謀と人心を巧みに使う周到な部分を理解できないでいると。 正妻の居る身で、妾に自分が選ばれたこともショックなのだろうと推測できる。
「貴女がそんなに強欲だったなんて初めて知ったわ!なんて高慢なのよ!」
現代の倫理観など通用しない。
しかも、国家安泰の為には、孔明は無くてはならない人で。その人物に選ばれて自分も好いているなら覚悟を決めなければ波紋を呼ぶ。
これ以上、現代人の物差しをこの時代に入れてはいけないのだと、柚は悲しい気持ちで叱咤した。
「仲達、結城を愛しぬく自信があるのなら、貴方が手に入れる機会は今しかないわ」
柚は結城を覚醒させる為に、仲達を焚きつけた。言われなくても、これが最後の好機であることは仲達にも分かっているだろう。沈黙の闇に響き渡る声。
「来るのだ、そなたの居場所は我腕の中にある」
女物の衣装を投げ捨て、仲達は両腕を広げて甘く切ない声で呼んだ。あくまでも攫わずに、結城の意思を尊重させる仲達に柚は好感を持つ。
彼女が好いた人物が彼であったら良かったのにと。
「ごめんなさい。私は、万民の為に生きます」
長い沈黙の後、結城は悲壮な顔で別れを告げた。
「柚をお願いします。もう一人の体じゃないのだから、自分の事だけを考えてね」
結城は仲達が止めるよりも早く、天幕を横切って走り去った。仲達の誘いを拒絶しただけのものではない。
何よりも結城の心が閉ざされてしまった事を意味していた。
いつか全てを理解できる日が彼女にも来るだろうと、切ない感情を残して柚は頬を伝う涙を拭いた。
別たれた清流と濁流は今、それぞれの大河として一歩を踏み出したのである。
読んで下さって、ありがとうございます。
毎日、一話ずつ投稿できたらと思います。
貴重なお時間を使って頂き、心から感謝します。
誤字脱字に関しては、優しく教えて頂けましたら幸いです。




