旅行記(1) 交易街ビンズスロウにて ~魔女に出会う~⑤
魔女の老婆に囚われてから、僕は彼女が営む宿の従業員としてこき使われることとなった。衣類の洗濯に皿洗い、清掃と接客と使い走り。他にも様々な雑務を押し付けられたのだが、例の目録のせいで逆らうことは叶わなかったのである。
だがしかし、しなかった仕事もある。
炊事に関してはベンが専任となっていた。彼は元の世界ではレストランで働いていたらしく、レパートリーに偏りはあれども味はお墨付きであったし、他の面々が素人未満の腕前だったことによる判断だ。
ウィルについては畑仕事がメインとなっていた。これは、彼が幼少の時分から触れていて慣れた作業であったことと、ここに来てからさらに十年繰り返していたことにより、もはや文字どおりの独壇場と成り果てていたことが原因だ。
諸悪の根源である老婆は、書類作業と資金管理。これらは僕らにはけして触れさせることはなく、必ず自分だけで行っていた。魔法で隷属させているとはいえ、けして信頼はしていないということの表れだと思われる。
こうして、役割分担をしながらの共同生活は、怨敵である老婆の存在がありながらも粛々と営まれることとなった。文句と愚痴は絶えなかったけれど、きちんと食事にありつくことが出来ることは大きな利点だった。
それに何より、同じ境遇の仲間がいたことが救いであったのかもしれない。僕一人だけであったならば、おそらく早々に心が折れていたことだろう。
とはいえ、この暮らしを続けるわけにはいかなかった。
自由がない。この宿にいる限り、僕たちには自由がなかったのである。
「そうそう、間違ってもここから抜け出そうだなんて思うんじゃないよ? アタシはいつだってアンタを見張ってる。魔女から逃げ出すことは出来ないし、ところでキツイお仕置きが待っているんだからねえ」
この宿に囚われてから二日目に、老婆があの引き笑いとともにそんなことを言っていたことを覚えている。ちょうど魔法で憂き目に合ったばかりだったから、僕は殊更にその忠言を重く受け止めていたのだった。
その翌日、畑仕事の手伝いのしていたとき、最古参であるウィルから過去の出来事について聞く機会があった。
「たしか九年前のことだったか……。私たちと同じようにマダムに捕らえられた若者がいたのだが、反骨心に満ちあふれていた彼は、捕まった当日に脱走を企てた。しかし――そんな彼の身に、ある恐るべきことが起こった」
「恐るべきこと?」
「真夜中に裏口の扉からこっそりと抜け出そうとしたところ、若者は何かに躓いて転んでしまった。それから立ち上がろうとしたものの、どうにも足が動かない。怪我でもしたのかと思い、触れてみると……彼の両足は、冷たい石になっていたのだ」
さながら怪談かおとぎ話のような事態だけれど、老婆の魔法をこの身で味わった後だったので、僕はそれを実話として聞くことが出来た。
息を吞みながら耳を傾ける僕に、ウィルは話を続ける。
「何事かわからず、うろたえていた若者であったが、やがてそんな彼のもとへマダムが現れた。両側の頬を糸で吊り上げられたような薄気味悪い笑みを浮かべながら、暗がりから足音もなく歩み寄ってきたらしい」
そうして不気味な登場をした老婆は、脱走を企てた若者へこう言った。
――アタシはいつでもアンタたちのことを見張っているよ。
――魔女の目からは、けして逃れることは出来ないんだからねえ。
「その言葉を耳にした途端、彼の全身は瞬く間に石へと変わってしまった。それからの一週間を、彼は無機物として過ごしたのだ。私もその様を目の当たりにしたが、なんとも恐ろしいものだったよ」
そんな一件が起こって以来、老婆に囚われた者たちは逃げ出すことを諦めた。自由を得ることよりも、自らの身の安全を選んだのである。
当時を知り、未だ宿に残っているウィルは、自然とそのことを語り継ぐ役割を担うことになったのだろう。
だがしかし、ここでどうにも気になることがあった。
「ところで、どうしてウィルさんはこの宿に残っているんですか? その口ぶりだと、魔女に逆らったりはしなかったんですよね?」
訊くまいか悩んだこの問いかけであったが、ウィルはすんなりと答えてくれた。
「わからんさ。あの魔女には歯向かったことも、機嫌取りをしたこともない。事を荒立てぬよう粛々と過ごす私に、彼女が何を思っているのかも知らん。ただ――」
ウィルはほくそ笑みながら、続けてこう言ってみせたのだった。
「魔女を間近で見続けることは、シェイクスピアもしたことはあるまい。この体験を物語にすることが出来れば、それは奴に勝る所業になると思わんかね?」
かの歴史的劇作家の最後の作品を思い浮かべながら、僕の胸中は極めて複雑なものになったのは言うまでもない。
その数日後、僕は午後から街へと繰り出していた。食材の買い出し当番が僕にまわってきたからだ。
老婆に囚われてから半月ほどが経過しており、街の地理も頭に入りきってはいなかったけれど、三日に一度巡ってくるこの時だけは自由を感じることが出来た。自分の足で歩くだけで、さながら冒険をしているような心持になれたのである。
しかし――歩けるのはあくまでこの街の中だけ。
見知らぬ土地へやってきて、意図せず世間のしがらみから解放されたはずなのに、置かれていたのは自由とは程遠い状況。僕は籠の中の鳥か、はたまた無実の虜囚か。毎日の食事が貰えることだけは幸運だったと思わされる。
このままではいられないので街の住人に助けを求めようとしたことはあったものの、どういうわけかそれを声に出すことが出来なかった。あの老婆が魔女であることを言おうとしても、口が勝手に閉じてしまうのである。
紙に書こうとしてみたときは激しい頭痛に襲われた。ここまでくると間違いなく老婆の仕業であることは自覚するし、あの老婆がいる限り僕は自由を得ることは出来ないことを嫌でも思い知らされる。
かといって、脅威である彼女へ果敢に挑んだところで勝ち目を見出せなかった。老いているとはいえ、彼女は魔女。過去の誰かみたく石へと変えられてしまう結末しかなく、他の二人を巻き込んだところでそれは同じだと思ったのだ。
先行き不安な未来に絶望した僕は、買い物帰りに公園へ歩を向けることにした。ビンズスロウの北側に位置するそこは、かつて僕が野宿をしようとした場所であり、市場の近くなので寄り道するにはちょうどよかったからだ。
ボール遊びをする子供らを避けて、広場で歓談に花咲かせるご婦人方を横切って、人気がない池のほとりまで辿り着くと、僕はそこにあるベンチへ腰を下ろした。
そうして買い物袋から、くすねた釣銭で買った駄菓子の小箱を取り出した。先輩であるベンから、少額であればバレないと教わっていたのだ。ささやかな反抗の証であるキャラメルの味が、口の中に優しく広がっていく。
――これから先、僕はどうなってしまうのだろうか。
頭はすっかり重たくなり、がっくりとうなだれて手元の包み紙を見つめ、この世界におけるキャラメルの成り立ちについて考えながら、現実逃避をしていたときだった。ふいに誰かが僕に話しかけてきたのである。
「暗い顔して、どうしたの?」
人々の喧騒にかき消されそうなか細い声に顔を上げると、僕の目の前には一人の少女がいた。年齢はおそらく十歳前後くらいで、背は低め。腰まで届く長い黒髪に、水色のワンピースという出で立ちから浮世離れした印象を与えられる。
だがしかし、違和感を覚える部分もあった。
頭に被っているのは大きな花飾りの付いた真っ白いつば広帽子。茶色い革の鞄を肩から下げ、フリル付きの黒くて長い日傘を閉じたままで持っていた。大人びているのか、子供っぽいのか、とにもかくにもちぐはぐだ。
「それ、美味しそうだね。一つ、くれる?」
僕が手にしていたキャラメルの小箱を指さしながら、帽子の少女はそう言った。どうしたの、と尋ねておきながら、なんとも厚かましいやつである。
貴重な甘味を失うことは躊躇われたが、年少の者には優しくすべきかと思い直し、やむなく僕は最後の一つを手渡したのだった。
「ありがとう。人は、見かけによらないんだね」
僕は思わず、手元に残った優しさも投げ捨ててしまいそうになった。手元にスマホがあったなら、いまの発言をSNSに晒してやると息巻いていたかもしれない。
スマホは実家に置き去りになっているという現実と、ささやかな良心でどうにか思いとどまった僕であったが、この後に少女が口にした言葉のせいでそれらはまとめて吹き飛ばされてしまったのだった。
「ところで、あなたは来訪者でしょう? 誰かに呪われているみたいだけど、どうしたの?」
あまりにも予想外だったので、僕は思わず少女の顔へと目をやった。いつの間にか同じベンチに腰かけていた当人は、口の中でキャラメルを転がしながら、驚くこちらを気にも留めずに足をぶらぶらさせている。
「困っているなら、助けになるよ?」
「いやいや、無理だよ。君が何者か知らないけどさ。それに、僕はそろそろ戻らないといけないし、いまは説明してる時間もなくて……」
魔女の老婆の存在にすっかり恐怖を抱いていた僕は、なにがしかの魔法によるペナルティが飛んでこないことを祈りながら、急いでその場を立ち去ろうとした。
しかし、そんな僕を目にしながらも、帽子の少女は態度を崩さなかった。
そうして――またも僕は想像を絶する事態に見舞われることとなったのだ。
「じゃあ、こうするね」
帽子の少女は僕のほうへ歩み寄ってきたかと思うと、手にしていた黒い日傘を頭上に掲げてから開いた。互いの身長差も相まって、その様相はどこかぎこちない相合傘である。
窮屈なので離れようとした僕であったが、次の瞬間には大きな違和感があることに気づいていた。
「…………止まってる?」
伸びた芝の上を駆けていた子供たちも、与太話に口を開けて笑う婦人方も、そのままの姿で止まっている。子供が蹴り上げたボールも、空を飛んでいた名の知れない小鳥たちも、固まって宙に浮いたままだ。
それどころか、周囲からは一切の物音は聞こえず、吹いていた風も止んでいた。
動いていたのは、僕と目の前にいる少女のみ。
「傘をさしたら、雨は止む。黒い傘には光は届かず、太陽からも見て取れない。月も止まって、時間も止まる――」
なにやら詩的なことを口ずさむ少女に、僕は怯えながらも尋ねた。
「君は、いったい……?」
半端に途切れた僕の質問に、彼女はすぐに答えを返す。
「わたしは、時の魔女――その名のとおり、時間を容易に操る者。魔法を知らないあなたには、わかるかどうかわからないけど」
抑揚のない声と表情からは、何も読み取ることは出来なかった。