フェリクスの結婚①
すやすやと無警戒な顔で眠る彼女を、複雑な気持ちで眺める。
話が違いすぎる。
何が嘘で何が本当なのか。
本当に彼女があのアダルベルト女侯爵なのかさえ、疑いたくなる。
けれど私は確かに彼女と並び、教会で夫婦になるを誓った。
実態はともかく、彼女は私を夫と呼んだ。
支度された部屋。与えられた権利の数々。
私をアダルベルトに迎え入れる暖かな言葉。
なぜこうなった。状況が理解しがたい。
もっと私は不幸で理不尽で醜悪な結婚をしたはずだった。
故郷を捨てて、のうのうとまともな結婚などするはずがなかった。
なのに。
私はうっとうしい自分の色素の薄い髪を乱暴にかき上げ、彼女の寝顔に背を向けた。
さっきまで座っていた椅子に戻り、はあと息を吐く。
これまでのことを思い返し、考えを整理し、これからのことを考えなければいけない。
※※※
ある日唐突に父が、「アダルベルト侯爵から婿入りの話がある」と言い出した。
また父が都合の良い夢を見ているか、騙されているのだと思った。
アダルベルト侯爵家とクレーベ伯爵家では格差がありすぎる。私は格上の家から結婚相手に求められるような身の上ではない。
そもそも10年も領地に籠もっている私にどうして急にそんな話が上がるのだ。
「そんな話にのっては絶対駄目です」
父を強く諌めたが、何故か話はスルスルと現実に向けて走り出し、問答無用でお見合いに引き出された。
「私を結婚させたいのなら、領地の者とします」
「私はこの領地を離れられません。離れたら誰が領民たちを守るのです?」
「では私の変わりに父様がクレーベ領を管理してくださるのですか!?」
必死で訴えた。
いつも気弱に“そうだねそうだね”と頷く父が、何故かこの話に関することだけは不思議なほど頑なだった。
強引に事を進め、いつの間にか私の婚約は成立してしまったらしい。
まさに青天の霹靂。
父の胸ぐらをつかんで“目を覚ませ”と揺さぶってやりたかった。
冗談ではなく、私がいなくなればこの領は
おしまいだ。
父だとてクレーベの一族。前領主でもある。
気が弱くて、いろんなものを奪われて、何の力も無くしてしまったけど、この領地や領地民がどうなってもいいとは思っていないはずなのに。
なぜ、私がこれほど領地にすがりつくのか、他領の者にはわからないだろう。
領地に管理人を置き自分たちは王都で呑気に暮らす、昨今の貴族たちには特に理解できないはずだ。
クレーベ領はこの国最大の農耕地。
農民と共に生き、的確に采配を奮える領主一族がずっとこの地を直接管理してきたのだ。
それはひとりひとりは力を持たない農民たちを守り、大きな労働力にした。
クレーベの歴史は農民たちと領主一族の二人三脚で紡がれてきた。
しかし、現在領主の位置にいる義兄は何の知識も能力もない。
そのくせ、おかしな理屈や難癖をつけて一族の分家から次々に権利を取り上げ、領地から追い出した。
クレーベ領のあちこちで、肥料や苗も自由に買えなくなり、水の分配が上手くいかなくなった。作物の病気が広がっても、大雨で川が氾濫しても、情報も届かず、対策しようにも人も費用もない。
収穫量が減ったのはもちろん、救えたはずの命がいくつも消えた。畑も潰れた。
定められた出荷量が用意出来ないことで、他領からも国からも責められた。
領地経営が上手くいかないとわかると義兄は王都に逃げた。権利を握ったまま。
クレーベ城に一人残った私は権利を持たない管理人だった。
領地の状況を把握し、必要なところに必要なものが届くように手配する。
人を育て動かす。他領と交渉する。
領主の権利や資金が必要な時は王都に出向き、義兄の前に跪いて嘆願する。
これら全てのことが出来るのは、うぬぼれでもなく、私だけ。
祖父から跡取りとして教育された私だけだった。
私一人で領地の全てを回すことは、当然出来ていない。資金もない。それどころか王都では領地を担保にして義兄たちの借金が膨れ上がっている。
クレーベは今、下り坂を転げ落ちていくが如く。
それでも私がぎりぎり最後の綱を握っているのだ。
「どうか、クレーベを見捨てないでください」
私の懇願に父は困ったような顔で、でも“わかった”とはとうとう言わなかった。
父の滅多にない強引さの理由を知ったのは、義母によってだった。
義母は父の後妻、義兄の実母。義兄と共に王都で暮らす、義兄以上の難物である。
珍しく王都から領地に来たかと思えば、迎えに出た私をその場で嘲笑した。
「アダルベルト侯爵に買っていただけるなんて。見た目が美しいと得だねえ」と。
義理母は喜々とした顔で私に伝えた。
どこかで私の姿を見たアダルベルト侯爵が「お金に困っているのなら、息子さんを買ってあげましょう」と父に申し出てきたのだ、と。
ここ数年借金に悩まされていた父はその場で頷いたらしい。
※※※
「あそこの女侯爵はまだ結婚もしてなかったんだねぇー。良かったじゃない。形だけでも婿入りって体裁ができて」
義母はおかしくてしょうがない、というように言う。
「でも、心配だねぇー。お前が女侯爵を満足させられるのか。侯爵はずいぶん経験豊富だと聞くから、よほど頑張らないと。お前、経験はあるの?」
あまりに嫌らしい言葉に怖気が走った。
「夜専用の婿なんて、楽でいいとは思うけどねぇー」
夜、専用。
その強烈な言葉に頭の中が真っ白になった。
物も言えない私を義母が嬉しそうに眺める。
だから、この女はこんなに嬉しそうなのか。
我が家より遥か上位の貴族家に私が婿として迎えられるのを喜ぶ義母じゃない。
婿なのは表面だけだから。これから私を襲う理不尽を思うと笑いが止まらないのだろう。
アダルベルトに私は卑しい者として買われた。
そうか。そうでなければ私に金を出す訳がない。幼い頃から特別と言われるこの見た目が目的でなければ。
「なーに?まさかお父様から聞いてなかった?本当に普通の婿として求められたと思ってたの?」
義母の粘っこい声にはっとした。
衝撃も悲嘆も怒りも、この女には見せるものか。
いつも義母に向かう時にかぶる微笑みの仮面を貼り付ける。
ゆったりと余裕のある口調で答えた。
「…どちらにせよ、アダルベルト侯爵家に行かせていただけるなど私の身には余る光栄です。義母様にはご心配いただきありがとうございます」
案の定、義母は悔しそうな顔を見せた。
貴族として教育を受けていないこの女は容易く感情を見せる。
私をやり込めた時、私を苦しめている実感がある時、義母の目はキラキラ輝く。私が思うように動かない時、私が義母の前に這いつくばっていない時、義母の目尻にはしわがより唇は歪む。
そういうところは義兄もそっくりだ。感動するほどに似た親子。救いがない。
私はまぶたを伏せて、謙虚に見えるように言った。
「私で得られた金銭がクレーベの役に立つのなら、どれほど嬉しいことでしょうか」
嫌味半分、本音半分だ。
私を売った金で義母や義兄が更に贅沢を覚えるというのなら、さすがに耐えられそうにない。
義母はいきり立った。
「生意気なことを!クレーベ、クレーベってお前いつまで跡取りのつもりなの?」
まるで発情期の猫のような耳障りな声に、心を空にして従順に応える。
「生意気なことを申しました。お許しください。義母様」
「その謝る態度が人を馬鹿にしてるんだよ!」
いつもどおりの台詞で罵る義母に頭を垂れることに今更何の感慨もない。
愛しいクレーベの為だからだ。
祖父に託された私のクレーベ。
けれど、それすらもうすぐ出来なくなる。
私はもうすぐここから遠く離れ、義母の代わりにアダルベルト侯爵の前に跪くことになるのだろう。
そして義母と義兄はますますクレーベ領から資金だけを絞りとろうとするだろうし、クレーベ城には誰も住まなくなる。
輝く麦畑も、黄色く染まるぶどう畑も、技術を継いできた農民も、知識も伝統も、皆退廃していく。
その未来を変える方法を私は知らなかった。




