第1話 トロイメライに包まれて
ハイブリットピアノの鍵盤から手を放す。
息をつき、ぼうっと譜面を見つめる。
コンクールの動画審査で使用する楽曲。撮影の日はもう間近に迫っていた。
右手中指を軽くもみながら立ち上がる。
特に痛みなんかはない。調子が悪いとかそんなこともない。
そうであってほしかったな。なんて思う。
ミスタッチが多い。苦手な小節でのリズムと音色は耳をふさぎたくなる。
それでももう悔しさなんて出てこなかった。むしろ数年前まで持っていたピアニストになるという夢は、僕の中でとうに色あせていた。
何のためにコンクールに出るのだろう。
知らないふりをして考えた。答えはすぐに出る。
音楽大学の3年生。周りは続々と就活の準備を始めている。そういう煩わしい現実から逃げたい。ただそれだけだった。
そんな状況でモチベーションの上がらないコンクールのために、鍵盤を叩いてストレスをため続けている。
思わずため息がでる。
時計を見ると練習を始めてから20分も経っていない。
夕日の差し込む窓際に行き、ゆっくりと窓を開ける。
自室の4分の1を占拠するこのピアノはもともとは叔母が持っていて、一人暮らしをするからと譲ってもらったものだった。
そのままピアノの屋根に置いたヘッドホンを耳につけ、スマートフォンで動画を流してベッドへとダイブした。
優しく包むように耳をなでる。ヘッドホンから聴こえるトロイメライはまさに夢の中にいるような、そんな気分にさせてくれた。
ベッドに寝転がったまま大きく伸びをする。部屋に入ってくる夕方の風がカーテンを揺らす。心地よい春の匂いがした。
傍らに転がるスマートフォンを持ち上げ画面を見る。動画配信サイトのロゴと共に、一人の女性が演奏している姿が映し出される。
『上本香奈 トロイメライ』
動画で有名になりたいとかそんなことを一切考えていないような簡潔なタイトル。しかしこの演奏に引き込まれた人間は多いのだろう。現に再生回数は100万回を超えている。
もっとも彼女の知名度も後押ししている。上本香奈、確かなピアノの技術と美貌を持ち、今やクラシック業界だけではなく幅広い層に認知されている同い年の女の子。
僕が過去、彼女と一緒のピアノ教室に通っていたことなど誰も知らない。
それでも嫉妬なんかはわかなかった。遠くに行き過ぎた存在は、自分の中で自動的に処理されるのだと思う。現に遠ざけることもなく、僕は彼女の演奏を毎日欠かさず聴いている。
演奏そのものが違った。トロイメライは中高の時に何回も弾いたことがある。
簡単で個人的に好きな曲だったから。
でも彼女のようには弾けない。
僕がいくら弾いても動画の中の香奈ちゃんには勝てない。
夢の中に落ちるような情景は、弾いてる本人でも一回も感じたことはない。
高校の時に付き合っていた彼女にこの曲を演奏して褒めてもらったことがあった。
ただそれは秋の夕暮れの情緒と、ピアノのもともと持ってる繊細な音の力でごまかされてるだけだと思った。
あの頃は純粋に演奏が楽しかったと思う。
でも今は・・・。
そこまで考えて思考を止めた。
最近よくあることだった。
いつの間にか動画は終わっていた。そのままヘッドホンを外して、スマホと共に傍らに置く。
夢の時間は終わって現実に引き戻される。その時嫌でも思い出されるのは、現状の自分のことだった。
動画審査用の課題曲すら、いまだに納得のいく演奏が一度もできていない。
練習で弾くことに飽きてしまっている。
いっそ今回はコンクールの出場すら辞退しようかと思ったとき、窓の外から風と共に時報の音が舞い込んできた。
少し割れた音は、このあたりに17時を知らせる。何を考えてもネガティブになってしまう今の僕にはちょうどよかったのかもしれない。
と、今度は傍らからバイブ音が鳴る。音の主はスマートフォン。画面に映るのは同期からの着信画面だった。
「なに?」
スマホを耳に当てて少しぶっきらぼうに応答した。そんなこちらの気分など考えていないだろう電話の主は、少しうるさいくらいの声で話しかける。
「合コン、今から、男3女3、来るよな?」
結局僕は何を答えたのか定かではない。多分最初は断ったのだと思う。
でも気が付くとベッドから降りて外出する準備をしていた。理由はわからない。
ただ忘れたかったのかもしれない。うまくいかないピアノも。僕を取り巻く現状も。
自分の選んだ道で何もうまくできない中途半場な人間だということも。
部屋を出る前に窓を見た。風はもう、部屋に吹き込んでいなかった。




