第18話 もしかして
平日だからか、スタジオの延長を2回繰り返すことができた。
いつの間にかスタジオに入ってから5時間が経っていた。
入口の付近の休憩スペースには3人掛けのソファが2つ、ローテーブルをはさんで向かい合わせで置いてある。それぞれの真ん中にお互いが無言で座っている。
対面の香奈ちゃんはスマホをずっと触っている。たまった連絡を返しているのか、しきりに画面をスワイプしていた。
友永は連絡があったといい少し席を外していた。スタジオ代の会計も済ませているから、僕はともかく香奈ちゃんが残る必要はない。
何か話すことがあるのだろうかと思ったとき、スマホから視線を上げて香奈ちゃんがこちらを向いた。再開してからしっかりと見ることはなかったから、少しドキッとした。
「あの、一個聞いていいですか」
恐る恐ると彼女が問いかけてくる。
僕が小さくうなずくと、つづけた。
「この前成田って、言ってましたよね」
心臓が跳ねあがる。
「あぇ、えっと」
しばらくこの話をすることはないと思っていた。しかし香奈ちゃんの方からこの話を切り出したことに、驚きと高揚で思考が停止して言葉が出ない。
僕が何も言えないことを察したのか、彼女の方から咳ばらいを一つして続ける。
「もしかして成田君の知り合いですか? 私がちっちゃいころに通っていたピアノ教室に、そんな男の子がいたんです。それとも、本人だったり。何か理由があって苗字が変わったとか」
止まった脳が警鐘を鳴らす。
ここしかないと、ようやく見つけた過去との接点を逃してはいけないと。
息を吸い、声のボリュームは気にせず、言葉を投げる。
「あぇ、えっと、僕です。僕が成田なんです。事情があって、今はこの人の体の中に入っちゃって。ほんっ、ほんとの僕はし、死にました。入れ替わったときの事故があって、それで・・・」
感情の赴くままにしゃべった。そうしてすぐに言葉に詰まってしまう。ぱくぱくと口を動かすけど、声が全くでない。
言いたいことはたくさんあった。今の僕の感じる世界のすべて、おかれている状況、なんで薬物なんかに手を出したのかも聞きたい。他にも言いたいことは山ほどあった。
でもそれらを全部言葉に出すことはできない。処理が全く追いつかない。
じっと僕の目を見ながら話を聞いてくれていた香奈ちゃんが、軽い溜息をつく。
もう僕の話が通じる時ではないのだと理解した。
「よくわからないですけど、何か事情があるんですね。もういいです。ちょっと気になって聞いてみたかっただけなので」
そう言うと、ソファから立ち上がる。
傍らに置いてあったショルダーバッグを肩にかけ、僕を見下ろしながら言う。
「明日は午後からテレビの収録があるので、朝10時にまたお願いします。今日教えた手の感覚を、イメージで反復しておいてください」
その場から立ち去ろうとする香奈ちゃん。
目で追うことしかできない僕の口から、先ほどまでぐるぐると頭の中にあった一つの言葉が、ぽんと押し出された。
「トロイメライ。貴女のトロイメライが、ずっと一番好きです」
僕に背を向けたまま少しだけ歩みを緩めたような気がした。それが気のせいなのかはわからないまま、彼女の姿は見えなくなった。
◇ ◇ ◇
地下格闘技団体TAMASHII。
その名前を聞いたとき、友永は歓喜に震えた。
彼の夢は格闘技で名を馳せ、表舞台で有名な選手になることだった。そのために総合のジムに通い、実戦も積んできた。
しかしその実戦というのも街の喧嘩自慢しか出ないような小規模なものばかりだった。主催の団体も小さく、そこから大きく羽ばたけるような未来も描きにくい。
そんな中、通っているジムの代表から電話がかかってきたのが10分前。先にスタジオ代の会計だけを済ませ、森と上本を残して外に出る。
内容はこうだった。
「TAMASHIIの試合の枠を一個もらえたんだよ。うちの門下生の出たい奴で予選組むけど、お前はどうする」
願ってもないことだった。
二つ返事で参加を希望し、電話を切る。
友永は歓喜と武者震いに震えていた。
TAMASHIIは地下格闘技の団体だが、そこの出場者のOBが表の格闘技の選手として名を挙げていることから、一般にも認知をされ始め、一気に知名度を上げた。
興奮して上がった息を整え、森を迎えに行くためにスタジオに戻る。
その入り口で、上本とすれ違った。
呼び止める間もなく、彼女は足早に去っていく。表情はよく見えない。彼女も友永に気づいていないようだった。
その後ろ姿を少し見つめた後、友永はスタジオへと入っていった。




