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30. 最初の食卓

 婚礼の朝、バジルの庭は満開だった。


 薔薇ではない。薬草の白い花と、果樹の若い実と、蜂の羽音の庭である。働く庭は、晴れの日も働きながら咲く。二十年門を磨いた庭師は、今朝は門でなく、庭の真ん中に立っていた。一番よい場所に一番よい花が来るよう、鉢の位置を朝から三度直している。


 式は小さく、宴は庭で開いた。


 招いたのは身内と、市場と、組合だけである。女将たちが花より賑やかに笑い、粉屋と親方が早くも杯を交わし、ブノワ殿は開始前から涙腺が危うい。オルタンス様は「身内席はこちらよ」と自分で椅子を並べ替えている。ロクサーヌ様は臙脂ではなく、今日は薄い若草色の装いで来られた。目利きは、主役の日を(わきま)えている。


 塀の向こうからも、三人来た。


 ロズは新しいお仕着せで、門をくぐるなり駆け寄ってきて、頭――と言いかけ、言い直した。


「……奥様。お綺麗です」


「ロズ。屋敷は?」


「回しております。……回して、みせます」


 目の下に薄い(くま)と、腰に真新しい鍵束。良い顔になっていた。隈は、育つ者の勲章である。ニネットはロクサーヌ家のお仕着せで、稽古のない礼を深々とひとつ。あの冬、塀の破れ目の前で震えていた靴が、今日は表の門から入ってきた。それだけで、こちらの目頭の帳尻が危うい。


 バティスト様は、折り目正しい古い礼服で、門の前に長いこと立ってから入ってきた。


「……良い日和です」


 それだけ言って、目尻を拭う。


 若公爵は、来なかった。代わりに祝いの品が届いた。蜂蜜色の葡萄酒がひと箱、品書きは一行きり。「取引先より」。距離の取り方に、あの家なりの筋が通っている。この葡萄酒は、乾杯に使うことにした。筋には、筋で返すのが礼儀である。


 宴の主役は、台所だった。


 コリンヌが袖をまくって宣言する。


「今日は十八通り目をおろすよ。婚礼のための、新作さ」


 芋を蜂蜜と焼き上げた、香ばしくて甘い菓子である。ひと口で女将たちが静かになり、次のひと口で、前より騒がしくなった。コリンヌは私の隣へ来て、皿をひとつ、押し付けるように寄越した。


「嫁入り道具ってのは、手に付いた工夫のことだって言ったろ。……こいつの拵え方は、あんたに持たせるよ。あたしの道具箱から、嫁入り道具の分けまえさ」


「あ、ありがとう……。こ、これは湯気でございます」


 私は慌てて手巾で目をぬぐう。


「はいはい、湯気だね」


 鍋の湯気で通る涙の量には、限度というものがある。今日ばかりは、限度を検めないでおいた。


 私は今日から、家政長ではない。


 家の者は雇えない、が私の規定である。だから肩書は返上して、同じ台所に女主人として立つ。給金はなくなり、成功報酬の条文も役目を終えた。家の実入りの全部が、そのまま私の帳面になったのだから、考えてみればこれは、生涯最大の昇給である。


「肩書が変わっただけで、献立は変わりません」


 そう宣言すると、コリンヌが笑った。この屋敷の台所は、これからも湯気と笑い声で回るのだ。


        ◇


 塀の向こうの屋敷では、新しい女中頭が廊下を歩いていた。腰の鍵束が鳴り、兼任で宙に浮いていた職分がひとつずつ、名札を付けて地面に降りていく。若い当主は口を出さず、月に一度だけ帳面を検める。すれ違った古参の女中が、小さく言った。「……前の頭に、似てきたね」。その晩、執務室で帳面を閉じた若公爵は、誰にともなく呟いた。


「……女中頭は、誰でも務まらん」


 窓の外、塀の向こうの庭に、温かい灯りが揺れている。


        ◇


 客が帰り、家中が寝静まって、食堂に蝋燭が一本残った。


 最初の食卓である。当主と、女主人の。皿の上には十八通り目の残りと、蜂蜜色の葡萄酒が指二本分。窓の外で、夏の虫が鳴き始めている。


「今週から、給金日はありませんね」


「代わりに、家計がございます。週に一度、二人で検めましょう。……儀式は名前を変えて、続くものでございます」


「では、最初の家計に」


 杯を合わせてから、私は布の包みをひとつ、卓の上に置いた。開くと、銀貨が三枚。


「……使わなかったのですか?」


「使えませんでした」


 最初の給金日の、最初の三枚である。あの夜、掌で受け取った温度のまま、二十年物の癖で、仕舞い込んで取ってあった。使い道なら、いくらでもあった。使える銀貨では、なかっただけである。


 旦那様――いいえ、旦那様のままでいい。呼び方の様式も、きっともう抜けない。旦那様は三枚を見つめ、それから私を見た。


「それは、取っておいた理由が、あるのですか?」


「ございます。本日、分かりました」


 三枚を掌に載せ、灯りにかざす。小さな銀の目方が、掌の上で、二十年ぶんの重さをしている。


「これはわたくしの、生涯でいちばん高い買い物の――手付けでございました」


 値札を剥がすと約束してくれた人が、湯気の向こうで笑っている。


 残りの代金は、生涯をかけて、この食卓で受け取っていく。

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