2. 芋の十七通り
フルーリ伯爵家の台所は、広くて、寒くて、綺麗だった。
鍋は磨かれ、竈の灰は落とされ、床には水の跡ひとつない。朝の台所というものは、その家の正直な顔である。金がないのは在庫を見れば分かる。芋の箱、豆の袋、塩壺、粉袋が半分。以上である。
その真ん中に、腕の太い料理番が仁王立ちしていた。
「コリンヌだよ。言っとくけどね、うちの台所は貧乏だよ」
「存じております。ですが、清潔でございます」
「……あんた、いい目をしてるね」
いい目。その言い方に、遠い秋の市場が一瞬重なって、消えた。
コリンヌの手を見る。火傷の古い痕と、包丁だこ。手は履歴書である。この手は、長い。
聞けば、今夜の献立は芋の重ね焼き。昨日は芋の団子汁。一昨日は芋のガレット。
「芋ばっかりで嫌になるだろ?」
「いいえ。三日で三通り、味も食感も変えていらっしゃる。――何通り、お持ちですか?」
コリンヌは太い腕を組み、少し得意げに鼻を鳴らした。
「十七さ」
「十七……ほぅ」
私は腰の手帳に書き付けた。芋料理十七通り。これは飢えの数ではない。工夫の年輪、技術の数である。
「コリンヌさん。それは貧乏ではございません。技術と申します」
「……変なこと言う女中頭だね、あんた」
照れると耳が赤くなるのが、この人の癖らしい。それも手帳に書き付ける。人は、こういうことから覚えるのだ。
――さて、仕入れである。
翌朝、市場へ出た。二十年通った市場だ。石畳の窪みの位置まで覚えている。荷車の軋み、呼び売りの声、土と林檎の匂い。秋の市場は、音まで実っている。
奥様に拾われたあの人参の台は、いまは花屋に変わっている。前を通るとき、少しだけ歩幅が狂うのは、石畳のせいということにしてある。
「あれ、マーサさんじゃないか! 公爵家を辞めたって本当かい?」
「本当でございます。本日からお隣の、フルーリ伯爵家の勝手方で」
青物の女将の声は、市場の鐘より速く伝わる。昼までには市場中が知っているだろう。それでいい。宣伝は、ただに限る。
「で、どうだい、お隣は? 芋ばっかりって噂じゃないか?」
「よい芋でございますよ。――それより女将さん、この曲がりの箱、まとめてお幾らです?」
「相変わらず、値切るときだけ早口だね!」
仕入れの流儀は変えない。相見積もりは二軒以上。曲がった人参と割れ豆は箱でまとめて値切る。形の悪い野菜は、味は同じで値は六掛けだ。煮込んでしまえば、曲がりも割れも関係ない。
――曲がりの箱に、いい一本は紛れるものである。人参も、人も。
帰り道、荷車を引きながら勘定する。同じ銭で、昨日までの倍の献立が立つ。
◇
ルヴェル公爵家の勝手口では、青物屋の若い衆が首を傾げていた。先月から、納めの値が二割上がっている。相見積もりの相手が消えたからだが、屋敷の誰もそれに気づかない。帳場は判を押すだけである。
同じ頃、執事室では老執事が棚の前に立っていた。分厚い綴りの背表紙に、指が触れる。
「バティスト。わしが不要と言ったものを、屋敷で使うな」
若い当主の声に、指が止まる。綴りは棚に残り、扉が閉まった。
――夕刻、メナール公証人が屋敷へ来た。
齢六十八。書類鞄が体の一部のような、乾いた老人である。雇用契約の成文化。週給銀貨三枚、住み込みの個室と三度の食事、新しく始めた事業の週の純益の一割を成功報酬とする。読み上げの声に淀みがない。
「日付印は嘘をつきません。人は日付を忘れますがね」
「よいお言葉でございます。額に入れて飾りたいほど」
「……気の合いそうな方だ」
署名して、判が押されて、契約は紙になった。これで私は、正式にこの家の家政長である。
それからの六日は、台所から屋敷を耕して過ぎた。倍の献立に、家中の顔色が良くなっていく。芋の重ね焼きに骨出汁の豆スープが付き、同じ芋が湯気の向こうで別の顔をする。コリンヌの腕は、材料が増えるほど冴えるらしい。
そして七日目――契約に記した、最初の給金日である。
夕食のあと、食堂に呼ばれた。
当主がひとり、長い食卓の端に座っている。広すぎる食堂に、蝋燭が二本だけ。灯りの届かない天井の隅が、夜より暗い。その小さな灯りの前に、布包みがひとつ置いてあった。
洗いざらしの布である。角を揃えて、丁寧に畳んで包んである。見積もり、銅貨二枚。……いい布だ。
「一週目の、お給金です」
銀貨三枚。伯爵は包みを開き、一枚ずつ数えて、私の掌に載せた。
「たしかに、三枚。……その、少なくて」
「三枚と、お約束いたしました」
掌の銀貨が、妙に熱い。伯爵の手の温度である。
二十年、給金は月末に帳場で、袋のまま受け取ってきた。重さも枚数も正確で、文句を言ったことは一度もない。ただ、誰かの手から手へ、一枚ずつ数えて渡されたのは――生まれて、初めてである。
金額の話ではないのだ。値札というものは、書かれた数字ではなく、渡され方に宿るのだと、三枚の銀貨が言っている。
「来週も、この時間に」
「はい。来週も、この時間に」
廊下に出ると、窓の外に隣の屋敷の屋根が見えた。大きくて、立派で、暗い屋根だ。あの棟の下のどの部屋に誰が寝起きしているか、私はまだ全部言える。
……冬薪は、秋のうちに。
誰にともなく呟いて、持ち場へ戻る。
そのとき、門の外に、見覚えのある影が立っているのが見えた。
白髪。曲がらない背筋。着古した燕尾の、あの背中は――バティスト様である。




