1. 本日付で、辞めさせていただきます
ルヴェル公爵家の執務室の絨毯は、踏み心地で分かる上物である。
見積もり、金貨二枚。ただし椅子の脚の陰に、掃除の行き届かない三日分の埃。朝の光が窓から斜めに差して、その埃をわざわざ光らせている。埃は嘘をつかない。屋敷というものは、隅から崩れるのだ。
私は決裁の書付を胸の高さに捧げ持ち、若き当主の言葉を待っていた。
「――で?」
執務机の向こうで、ジョスラン・ルヴェル公爵は書付を指の先でつついた。二十六歳。亡くなられた大旦那様によく似た、形のいい眉。その眉が、面倒くさそうに歪む。
「冬薪の予約と、青物の納入替えでございます。薪は秋のうちに予約いたしませんと、真冬に三倍の値で――」
「そんなものに、当主の判が要るのか?」
「要りますとも。屋敷のお金の話でございますから」
要るように、二十年かけて仕組みを作ったのだ。判を押す人間が中身を知らない屋敷は、いつか必ず隅から崩れる。
公爵は書付を読まなかった。読まずに、机の端へ滑らせる。
「家政ごときに、随分と態度が大きいな」
――ぱちり。
胸の奥で、算盤の珠が鳴った。
「母上が甘やかしたのだろうが、勘違いするな。女中頭など、誰でも務まる」
珠が、止まる。
二十年。夜会の席次、冬薪の買付け、酒蔵の目録、賓客の枕の高さ。奥様に拾われた十八の秋から、この屋敷の段取りは全部、私の指の先で回ってきた。
――人参だった、と思う。
十八の秋、市場の隅で、奉公先を探していた小娘が人参の山を目利きしていた。曲がりの箱の中に味の良い一本が紛れる、その見分け方がある。ふと顔を上げると、身なりのいい奥方が笑っていた。あなた、いい目ね。
それが、私に付いた最初の値である。奥様はその場で私を拾い、公爵家の勝手口へ入れてくださった。以来二十年、あの「いい目ね」を元手に、自分の値打ちを一枚ずつ積み上げてきたのである。
その帳面が、いま、一言で白紙になった。
怒鳴るか。泣くか。どちらも性に合わない。私の性に合うのは、規定である。
私は書付を回収し、一礼した。
「規定により、一月前に申し上げます。本日より一月ののち、辞めさせていただきます」
「……なんだと?」
「後任の選定を、進言いたします」
「不要だ。誰でも務まると言ったはずだ」
机の上で、若い指が苛立ちに鳴る。
「では、引き継ぎのご説明だけでも」
「聞く価値もない。下がれ」
承知いたしました。規定通りに、そういたしましょう――――。
一月後の朝。
引き継ぎ書は、三部作った。
一部は執事室の棚へ。一部は公証人メナール殿の金庫へ、日付印を添えて。一部は私の手元に。夜会の席次規則から、冬薪の調達暦、酒蔵の目録と鍵の対応、弔いの式次第まで――紙に書けるものは、全部書いた。
鍵束を検めて、老執事のバティスト様に返す。五十三本。一本も欠けていない。
「マーサ……」
バティスト様は何か言いかけて、白い眉を下げたまま、結局何も言わなかった。この方は悪くない。悪くない人ほど、ああいう顔をする。
腰から鍵束が消えると、体がわずかに右へ傾ぐ気がした。二十年、左腰に提げてきた重さである。体は、職場を覚えているのだ。困った性分である。
通用門を出る。荷物は、鞄ひとつ。
二十年が、鞄ひとつ。
存外、軽い。
……軽いことが、いちばん堪えた。
――――さて。
次の職場は、決めてある。
塀一枚、隣である。
フルーリ伯爵家。没落して二十年、使用人は三人、食卓は芋ばかり――市場でそう噂される、丘の上の古い屋敷だ。門扉は蝶番が半分死んでいるのに、門の真鍮だけが、なぜか鏡のように磨き上げられている。
磨く手が、この家のどこかにいる。それで十分である。
呼び鈴を鳴らすと、当主が自分で扉を開けた。
オーレル・フルーリ伯爵、二十九歳。亜麻色の癖毛に、育ちのいい猫背。継ぎの当たった上着の、その継ぎの針目が丁寧なのを、私の目は先に数える。
「り、利払いでしたら、その、来季には必ず……」
「取り立てではございません。求職でございます」
「……きゅうしょく」
「隣の公爵家で女中頭を二十年務めました、マーサと申します。本日付で、無職でございます。――わたくしを、雇いませんか?」
伯爵は、しばらく黙った。それから慌てて私を客間へ通し、湯気の立つ茶と、蒸かした芋を出してくれる。
客間で、私は立って待った。二十年の癖である。座って人を待つ作法を、使用人は習わない。
「ど、どうぞ、お掛けください。その、立たれると、僕が落ち着かないので……」
椅子は古いが、脚の継ぎがしっかりしている。皿は欠けているが、いい皿だ。カーテンは色褪せているが、いい生地である。
「よい趣味のカーテンですこと。虫食いの位置以外は」
「は、はあ……恥ずかしながら、その、虫にまで見放されておりませんで……」
芋は、熱かった。指先に移る熱が、冷えた歩き通しの体に染みる。塩だけの味付けで、驚くほど甘い。
「単刀直入に申します。お給金は……お恥ずかしながら、雀の涙です。週に、銀貨三枚が精一杯です」
相場の六掛け。うちの――いや、あちらの下女の給金である。
「ですが」
伯爵は、背筋を伸ばした。猫背が、そのときだけ当主の背になる。
「毎週必ず、私が自分の手でお渡しします。遅らせません。値切りません。あなたのお仕事から、値札を剥がすことだけは、いたしません」
――ぱちり。
止まっていた算盤が、鳴った。
最初の元手は「いい目ね」の一言だった。二度目の元手は、どうやら「値札を剥がさない」であるらしい。悪くない。悪くないどころではない。
「それと、屋敷の実入りが増えましたら、増えた分の一割を、成功の報酬に。……雀の涙の、せめてもの詫びです」
「ようございます」
気づけば、答えていた。
「ここを、わたくしの職場にいたしましょう」
「ほ、本当ですか?」
「ただし条件がひとつ。契約は、明日にでも公証人を立てて成文に。……口約束は嫌いでございます。いえ――口約束を破られるのが、嫌いでございます」
「はい。ええと、それでは、まず何から?」
私は湯気の立つ芋をひと切れいただいてから、立ち上がった。
「まず、台所を拝見しましょう」




