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スターゲイザー  作者: ミズノハル
第一章 赤い目の悪魔
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1. 赤

 夢を見た。



 あの屋上で、灰色になった木のベンチに座り、茜色の空を眺めていた。太陽は空の端から、何もかもを赤く染め上げていた。空と、海と、砂浜と、この目を。

 右腕に、誰かの体温を感じる。誰かが生きている証。その確かな温もりと、肩にかかる優しげな重みに、胸に温かいものが広がる。しかし同時に、刺し貫くような痛みもはっきりと感じていた。


 これから夜が来るのか、それとも朝が来るのか、分からなかった。どちらにせよ、もうすぐこの手は離さなければならない。お互いを求めていることは痛いほど分かっているのに。

 背中に冷たい風が吹きつけた。



 大きな水音とともに、背中に強い衝撃を受け、思わず息を吐き出した。口の中に塩辛い水が流れこんだ。

 全身の筋肉は接続を絶たれたかのように動かすことができず、刺すような水の冷たさが体の芯まで手を伸ばし、急速に自分の体を凍えさせていくのを感じながら、暗く重苦しい水の中へなすすべなく沈んでいった。


 遠ざかる水面の光を見て、自分の行く先を確信した。あの水面の上へ顔を上げることはもう無い。星を見ることも、この手で誰かの温もりに触れることも、もう無いのだ。そう思い、ゆっくりと目を閉じた。意識が水の中に溶けるように薄らいでいく。凍えも、記憶の中の温かさも、すべて消えていく。


 何かが左手に触れた。温かい。重いまぶたを上げると、墨のような暗闇に、ぼんやりと白く浮かび上がるものが見えた。それは一対の細い腕だった。その先の小さな手は、熱を失った左手をそっと包みこんだ。



  ◇ ◇ ◇



 もうすぐ日が暮れる。木々の影は青みを帯びて、風の冷たさが不快なものになりはじめていた。この森の、こんなに奥まで来たのは初めてだった。もう引き上げるべきだろうか、とレイドは頭の隅で考えはじめた。

「なあ、レイド」と後ろを歩くライナーは言った。「もう戻ろう。このままだと俺たちが遭難しかねない」

「この辺りなんだ。もうかなり近いはず」とレイドは遮るように言った。後ろからわざとらしいため息が聞こえた。


 密集した木々は葉を重なり合わせ、覆いかぶさるように彼らを取り囲んでいた。森の中は暗かった。葉や土から暗さがしみだしているかのように辺りは真っ暗になっていた。ランタンで周囲を照らして斜面を下りながら、あと数歩進んだら今日は帰ろう、とレイドは考えていた。


 あっ、と左から声が上がった。それはライナーの声だった。彼は小さな崖の上から沢になっている岩場をのぞいていた。

「どうした?」とレイドは声をかけた。

「いた。いたよ。倒れてる。あれじゃないか、いなくなったの」とライナーは興奮して言った。「そっちからぐるっと左に行くと見えるはずだ」


 レイドは草をかき分け、ライナーの言うとおりに進んだ。沢に出ると、透明な水が流れている中に、黒い軍服の男があおむけに倒れているのを見つけた。彼が死んでいるのはひと目でわかった。腹が裂かれ、手足の一部が無くなっていた。浅黒くなった体に、鮮やかな襟章がついていた。あとから来たライナーはそれを見ると大きくため息をついた。

「こりゃあひどいな」とライナーは言った。

「熊に食われたのかな。もう冬眠したと思ってたけど」

 ライナーはレイドの言葉には答えず、じっと遺体を見つめていた。レイドは大きな袋を取り出し、何かを考えこむライナーの肩を叩いて、遺体を袋に入れた。遺体の見つからない部分を探すことはしなかった。


 いつもは口が休むことが無いライナーだったが、このときばかりはいやに静かだった。レイドは居心地が悪くなって、珍しく自分から話しかけた。

「この人、どうしてこんなところに来たんだろう」とレイドは尋ねた。

「ん、さあな」とライナーはぼんやり答えた。

 レイドは遺体の入った袋を担ぎあげた。「まあ、俺たちが考えても仕方ないか。帰ろう。前歩いてくれ」

「ああ」と答えるライナーはやはり調子が違っていた。


 空には星が瞬いていたが、それも鬱蒼(うっそう)と茂る木々の隙間から時々姿を見せるばかりで、森の中はやはり深い闇に沈んでいた。ランタンの光を頼りに、彼らは自分たちの通った跡をたどって歩き続けた。袋を通して伝わる冷たい体の感触が、いつにも増して不快だった。


 もうすぐ町に着こうというところで、ライナーは立ち止まった。足元を見ていたレイドは彼にぶつかり、遺体を落としそうになった。

「どうしたんだよ。さっきから変だぞ」とレイドは言った。

「いや」とライナーは口ごもったが、レイドの顔をちらりと見て、意を決したように口を開いた。「なあ、やっぱり熊じゃないと思うんだよ」

 レイドは彼のいつになく真剣なまなざしに、何も文句が言えなかった。

「あんまり大きな声じゃ言えないけど」とライナーは実際に声をひそめた。「あれは熊の仕業じゃない。食われたように荒らされてたけど、歯形には見えなかったんだ。爪で裂いたようでもない」

 レイドはライナーが言わんとすることがわかってきた。「目星はついてるのか?」

「いや、それはわからない。ただ、確かなことがある」

 ライナーは周囲に人がいないことを確かめようと首を回した。彼のランタンの光がまぶしかった。

「この人、誰かに殺されたんだよ」




 ふたりは遺体について、発見した場所以外は報告をしなかった。ライナーがそうしようと言ったからだった。


 翌日、荷物をまとめていたレイドのもとに、ライナーは訪ねてきた。

「昨日の、遭難ってことになったらしい」とライナーは言った。

「そっか」とレイドは言った。「調べるのか?」

「ちょっとやってみようと思う」

「……無理はするなよ」

「わかってるよ」ライナーは目を合わせずに言った。「レイドは今日から特務なんだっけ」

「ああ。内容はまだ聞いてないけど、しばらくここを離れることになる」

「誰が行くんだい?」

「アイクと俺のふたりだけらしい」

「アイク? どうしてあいつと?」

「俺が聞きたいよ」


 ライナーは足元の荷物を見ていた。荷重にならないようにと言われていたため、レイドは本当に最小限のものしか用意していなかった。

「少ないな、荷物」とライナーは言った。

「ああ。でも、すぐには帰れそうにないよ。悪いな、協力はできない」

「志願したわけじゃないんだろ、気にすんなよ」

 レイドは壁に立てかけていた剣を手に取った。ほとんど鈍器と言える粗末な両手剣だった。ずしりと重い剣を手にするたびに、彼はそれと同じくらい重い気持ちになった。彼はおぼつかない手つきで、(さや)につながれたベルトを肩に通した。


「なあ、レイド」とライナーは言った。「自分がどうしてここにいるのか、考えたことあるか?」

 レイドはライナーの目を見た。黒くくすんだ目だった。俺の目は彼にはどう見えるだろう、とレイドは思った。この赤い目は彼に何を語りかけるだろう。ライナーの目は正直だった。戸惑い、疑い、使命に燃えた、悲しい目だった。レイドは目をそらして、ライナーの足元の荷物を拾い上げた。

「お前、やっぱり昨日から変だよ。少し休んだらいいんじゃないか?」

 レイドはライナーの横を通り過ぎながらそう言い、ごまかすように笑った。嘘笑いが下手だと、彼に以前言われたことを思い出した。

「もし気が変わったら」とライナーはレイドの背中に言った。「ここに戻ってきてくれ。待ってるから」

 レイドは振り返らずに部屋を出た。




 アイクは訓練でよく相手をしてくれていた。戦闘の訓練では、ほとんどは彼が教えてくれた。アイクはおそろしく強かった。レイドは彼に多くのことを教えられ、多くのことを彼から吸収したが、結局一度も打ち負かせたことは無かった。

 彼は周囲から怪物と呼ばれるほどの男だった。ヒグマを素手で倒しただとか、一個中隊を一人で壊滅させただとか、めちゃくちゃな噂が出回っていた。レイドは最初は笑い飛ばしていたが、訓練中のアイクを見ていると段々とヒグマくらいは平気で倒せそうな気がしてきた。


「一つ聞いていいか」とレイドは息を切らせて言った。「どうして俺たちがこの任務に?」

 アイクは振り向かず、歩くペースも落とさなかった。長身の彼の歩幅は、レイドにはいささか大きく、その些細な問題は長距離を歩くレイドの脚に、大きな負担となりのしかかっていた。


 アイクから返答は無いだろう、とレイドが思ったのとほぼ同時に、彼は口を開いた。

「今回の任務は、ある人物の護衛だ。俺が駆り出されるってことは、それだけの人物なんだろう」

 たいした自信だな、とはレイドは言わなかった。アイクにそれだけの実力があることはよく知っていた。

「だから、それがよくわからないんだ」とレイドは言った。「そんなに大事なら、俺よりも使える奴に任せればいい。もっと人数だっていてもいい。どうして俺とあんただけなんだ、ってこと」


 短い沈黙があった。二人の男の足音が、広大な荒地に吸いこまれていった。

「一つは」とアイクは言った。「目立ってはいけないからだ。俺たちが動いていることは、国はおろか、革命軍の仲間にもあまり知られないようにしたい」

「もう一つは?」

 アイクが立ち止まるのを見て、レイドは顔を上げた。ふたりの赤い目が互いの姿をとらえた。

「“赤い目”か?」とレイドは言った。

「会えばわかる」と言い、アイクは前に向き直った。「もうすぐ村に着く。そこで待っているはずだ」




 アイクの言っていた通り、その村はほどなく目の前に現れた。畑だったはずの荒地に囲まれ、背の低い家屋が無造作に並ぶだけの小さな村だった。

「ここには、もう村人は残っていない」とアイクは言った。「もう誰も住んでいない。だから今回のような任務のために使われるらしい」

 彼の視線を追うと、頭ほどの大きさの石がいくつも置かれていた。レイドは息をのんで、背中の剣のベルトを締め直した。


 アイクは崩れそうな家屋の間を抜け、古い家の前で立ち止まった。よく見るとその家だけは手入れがされているようだった。

「俺だ、アイクだ」とアイクは言った。

 返事はすぐには来なかった。しばらくして、低い声が聞こえた。レイドには何を言っているのかはわからなかったが、アイクは二、三言やりとりをしていた。入口の木の扉が音も無く開き、濃いひげを生やした男が中から手招きをした。


 まだ日は沈んでいないのに、その家はほとんど真っ暗で、壁の隙間から射す光の中にほこりが舞っているのが見えた。こっちだ、と先程の低い声が言った。男の前には別の痩せた男がいて、そのふたりの間に小さな木の扉があった。レイドは家具の間をすり抜けて歩いたが、アイクが後ろで何かにぶつかった。彼にとってはあまり広い家ではないのだろう。


 男がその扉を開けると、奥から光が射しこんだ。机に置かれたランプの光だった。そのそばに背筋を伸ばして座っていたのは、一人の少女だった。彼女がこちらに振り向くと、金色の長い髪がランプの光を受け、やわらかな輝きを見せた。一対の赤い目が、来訪者をじっと見つめた。

 レイドは少女の姿を見て凍りついた。


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