1.はじまり
『ねえ、わたしのかわいいトト』
優しくて、可憐な、ドロシーお嬢様。
『ずっと一緒よ』
たった一人のご主人様。
それなのに、どうして。
「――おいおい、拍子抜けだな。もう少し楽しめると思ったんだが。女子供の拳にやられてどうする、殺す気でかかってこいよ」
一体どうして、凶悪な魔物たちを拳ひとつで圧倒していらっしゃるのでしょうか!?そのお姿はまぎれもなくわたくしの愛する主人、ドロシーお嬢様であられるのに、これではまるで戦闘狂のようではありませんか!
***
発端は、数刻前。
ドロシーお嬢様は、死んでしまったのです。
わたくしには何も、できなかった。
『お嬢様、ドロシーお嬢様っ……』
わたくしの声は届かないし、触れることすらできなかった。それもそのはず、わたくし――名をトトという、オスの黒犬でございますが、もう数年も前に死んでおりまして、ただ、魂というか意識というか……そういったものだけが、未練がましくこの世に残っておりました。
その日はひどい竜巻がドロシーお嬢様の家を襲い、とうとう彼女を家ごと巻き上げてしまったのです。まるで、子供に揺すられたおもちゃ箱のように、家の中はぐちゃぐちゃに振り回されてしまいました。そして、その中にいたドロシーお嬢様も。
竜巻がそれに飽きて簡単に手を離してしまったとき、ベッドの上で必死にしがみついていたお嬢様の上に重たい本棚がのしかかりました。すさまじい轟音の中、お嬢様の細い手が本棚の下からはらりと落ちる様子がやけにスローモーションのように見えました。
そして、静寂。無力なわたくしは、ただそこで、ドロシーお嬢様の気配がゆっくりと失われていくのを感じていました。
『お嬢様、待って、置いていかないで……』
ところが。お嬢様の指先から、真っ赤な血がひとしずく床にこぼれた瞬間。ぴくりと、その指先が動いたのです。
――お嬢様は、まだ死んでいない!?
それから、不思議なことが起こりました。お嬢様の指先からぼんやりと青い光が溢れ出したのです。本棚のせいでお嬢様のお体全体は見えませんでしたが、きっと全身を包み込むように光が反射している様子が見えました。
そして、次の瞬間。
「――クソ、いってえな!!」
ええーーっ!?!?
何を言っているか分からないと思いますが、ええと、ドロシーお嬢様が拳ひとつで本棚を弾き飛ばし、ベッドの上に立ち上がって悪態をついたのでございます!わたくしが一番、何を言っているのか分かりません!
お嬢様の名誉のために説明いたしますと、お嬢様はとても上品で、優しく、非力でいらっしゃったのです。ですので、目の前で血をペッ!と吐き出して頭をがしがし掻きむしっていらっしゃるお姿は……とても現実とは思えませんでした。
「……あ!?何だこれ!?」
そしてなにやら、手に絡まった長い髪を見てうろたえている様子。わたくし、ドロシーお嬢様の豊かな髪が大好きでございましたが、それはさておき。髪を見て、そして手のひらを見て、それから全身を見回して。
「いや待て、なんなんだこれ、俺は……!?」
俺……?
そう呟いたお嬢様が、不意にこちらを見ました。そう、わたくしのことを。ここにいないはずの、わたくしを。
「おまえ、」
『え』
「そこの、おまえ。おまえは何だ」
『そんな……わたくしが視えるんですか!?』
「あ、なに、そういうヤツなの?」
***
「……そうか、おまえは死んでいて、この体はおまえの主人のもの、というわけか」
わたくしのことを一通り説明し終えると、お嬢様はどっかりとベッドに座り込みました。仕草がなんだかワイルドです。
『ええ。わたくしのことも、ご自身のことも、覚えてらっしゃらないのでしょうか?』
「覚えているもなにも、俺はドロシーじゃない」
『え?』
「俺は『東の魔女』だ。……名前は言えん」
そう言うと、ぽかんと呆けるわたくしを置いて、彼女はすたすたと戸口に向かいました。そしてためらいもなく扉を開け放ちます。外からはやわらかな草の匂いが風に乗って運ばれてきましたが、それと一緒になんだか穏やかでない匂いも混じっていました。
「……はあ」
扉の外を見下ろしたお嬢様は短くため息をつき、そしてわたくしを振り返り、指先で足元を指しました。
「これが、俺」
彼女の足元、というよりも、この家の周りには、青々とした草原が広がっていました。もとより、この家はどんよりとした灰色の砂埃の町に建っていたはずなのですが、問題はそこではなく。
家の土台部分から、二本の足がはみ出しているのが見えました。まぎれもなく、人間の、おそらく成人男性の足。草の根元がなんだか濡れているように見えるのはきっと……
『ど、ど、どうしましょう!?この家が落ちたとき、この人の上に落ちてしまったんでしょうか!助けないと……!』
「いや、もう死んでる」
『ごめんなさい!!』
不可抗力とはいえ、どなたかを殺めてしまったようです!お嬢様は妙に落ち着き払っていますが、それにしても――
『え、これが、あなた?』
「そうだ。これは俺の足」
『つまり?』
「俺が死んで、おまえのドロシーも死んだ。ところが、どういうわけか……俺の魂がこの体に引っ掛かったみたいだ」
『……お嬢様の、魂は?』
「わからん。少なくとも、ここにはない」
そんな。
お嬢様は、ドロシーお嬢様は、あのとき、ほんとうに死んでしまっていた……?
「俺の体はこんなお手上げ状態だが、ドロシーの体はまだ修復の余地があった。とはいえ、致命傷は負っていたからな。普通の人間なら死んじまうのも無理はない」
彼女はそうぼやきながら、長いスカートの裾で体のあちこちの血を拭い始めました。あの……スカートを捲り上げるのは……お控えいただけないかと……
わたくしが黙り込んでいるのを見て、お嬢様――ではない彼女はなんだか気の毒そうにこちらを見ました。
「探しに行くか、おまえの主人を」
『えっ』
「魂だよ。どっかにあんだろ。見つけ出して、この体に戻してやれば生き返る」
『そんなことができるのですか?』
「正直なところ、わからん。だが、モノは試しって言うしな」
彼女はそう言って、ニカッと笑いました。その笑い方はわたくしの知るお嬢様のものではなかったのですが、彼女が笑ってくれるだけで、今はない尻尾がぶんぶんと揺れてしまう気持ちになりました。
また、ドロシーお嬢様に会えるのなら。お嬢様を取り戻せるのなら。わたくし、なんだってできそうな気がしてまいりました!




