エピローグ
尼崎市内に、大きな家がある。
大きな窓。
広い玄関。
明るいリビング。
庭には、子ども用の小さな滑り台と、なぜか本格的なバーベキュー台。
表札の横には、手作りの可愛らしい木の看板で『ファミリーホーム・Love Me Do』と掲げられている。
誰かが見たら、きっとただの豪邸だと言うだろう。
けれど、ここは白玲花が開いた「小規模ファミリーホーム」だ。親と暮らせない、行き場のない子どもたちを引き取り、共に暮らすための家。この家にいる子どもたちにとっては、ただの「帰ってきてもいい場所」、いや、「絶対に帰るべき自分の家」だった。
「こらー! 階段で走らん! 命は一個やで!」
その家の真ん中で、玲花は今日も忙しそうに動き回っていた。
髪は昔より少し落ち着いた色になったけれど、巻き方もメイクも相変わらず完璧だった。動きやすいワンピースにひらひらのエプロンをつけて、片手には山盛りの洗濯物、もう片方の手には小さな子どもの上履き。
それでも、ちゃんと可愛い。
いや、愛する子どもたちを守る責任を背負った彼女は、昔よりずっと強く、眩しいくらいに可愛かった。
「レイカせんせー! ジュースこぼしたー!」
「報告えらい! でも次からこぼす前に止まろな! ちょっと待っててや!」
「ヨンチョリ兄ちゃん、弁当忘れてる!」
「え、また!? ヨンチョリ! あんた弁当! 高校生にもなって何してんの!」
玄関で靴を履いていたヨンチョリが、少しだけ背を丸めて戻ってくる。
あんなに小さかった弟は、今では公立高校の制服がよく似合う背丈になっていた。
「ごめん、ぬな」
「はい、お弁当。あとこれ、パン。あとこれ、予備のチョコ。お腹すいたら食べ」
「多い」
「育ち盛りに多いは存在しません」
ヨンチョリは少しだけ笑って、ずっしり重い弁当袋を受け取った。
その横では、作業着姿の陸が、ダイニングテーブルいっぱいに広げた図面と睨めっこしていた。
陸は今、道路の公共事業を次々と請け負う、やり手の建設会社の社長になっていた。昔より少しだけ貫禄がつき、腕の筋肉もさらに太くなった。けれど、大きな背中と、無骨で真面目な横顔はあの頃と変わらない。
「陸ー! これ見て、新しく作るプレイルームの棚、やっぱり低い方がええと思うねん。子どもら自分で取れる高さ」
「安全考えたら、角丸くせなあかんな」
「角は全部丸くして。可愛い丸みで」
「可愛い丸みって何や」
「玲花が見て、きゅんとする丸み」
「道路の公共事業請け負う社長が、きゅんとする丸み図面に描けるか。数値で言え」
「数値で言えたら、こんなに可愛いファミリーホームのママやってませんー」
「てゆーかなんでラブミードゥやねん」
「いいやん!愛してねとか、愛するよってこと!かわいやろ!」
陸は呆れたように息を吐いた。
けれど、口元は確かに笑っていた。
玲花がそばへ寄ると、陸は何も言わずにその細い腰をぐっと引き寄せる。
「ちょっと、子どもら見てる」
「今さらやろ」
「まあな」
玲花は笑って、陸の頬にチュッと軽くキスをした。
すると、リビング中から「きゃー!」と楽しげな声が上がる。
「レイカせんせーとリクさん、またちゅーしたー!」
「見せつけやー!」
「大人ってすぐちゅーする!」
「こら! 大人はすぐはしません! 愛がある時だけします!」
「愛あるん?」
「ありまくりや!」
玲花が堂々と胸を張ると、陸が「アホか」と照れたように顔を背けた。
ヨンチョリはその様子を見て、小さく笑った。
昔、暗い部屋で一人、ゲームをしていた自分。
その背中を、玲花が何度も抱きしめてくれたこと。
置いていかない、と言ってくれたこと。
今、ここには血の繋がりを超えた子どもたちの声がある。
温かいご飯の匂いがある。
怒られても、笑っても、帰ってこられる場所がある。
「行ってきます」
ヨンチョリが言うと、玲花は満面の笑みで手を振った。
「行ってらっしゃい! 胸張って行き!」
陸も、図面から顔を上げる。
「車に気ぃつけろよ。あそこの交差点、今工事入ってて危ないからな」
「うん」
「あと、弁当箱ちゃんと出せ」
「まだ食べてない」
「帰ったらや」
「わかってる」
ヨンチョリは笑って、賑やかな玄関を出た。
尼崎の朝の空気は、少しだけ乾いていた。
自転車に乗り、見慣れた道を走る。
武庫川の方から、春の匂いを孕んだ風が吹いてくる。
やがて、ヨンチョリは自分の通う高校に着いた。
地元の公立高校。
大きな校門。
朝のざわめき。
制服姿の生徒たちが、次々と校内へ吸い込まれていく。
その校門の前に、一人の英語教師が立っていた。
四年制大学を無事に卒業し、夢を叶えて教壇に立った西倉天馬だ。
年中日焼けしたような肌。
すらりとした長い手足。
少し深い、彫刻のような顔立ち。
宝石のようなヘーゼルアイ。
耳には小さなピアスの跡。
アイロンのきいた白いシャツに、きちんとしたネイビージャケット。
とてもかっこいい先生だった。
「西倉先生、今日もかっこよくない?」
「やばい。朝から顔面が強い。発音もネイティブやし」
「でも既婚者やで。左手見てみ」
「知ってる。若くして結婚してるとか、それがまた強い」
女子生徒たちが少し離れたところできゃあきゃあ騒いでいる。
天馬は、それをしれっと聞こえないふりで完全にスルーしていた。
そして、自転車を押して歩いてくるヨンチョリを見つけると、ふっと口元を緩めて笑った。
「ヨンチョリ」
「おはようございます、西倉先生」
「おはよう。今日は弁当持ったか」
「持ちました。重いです」
「玲花に怒られた?」
「ちょっと」
「ちょっとで済んだならよかったな」
天馬は、そう言って優しく笑った。
その笑顔は、昔よりずっと大人びていた。けれど、どこか少年のような柔らかさも残っている。そして何より、彼を縁取る朝の光の中で、その透き通るようなヘーゼルの瞳がきらりと美しく輝いていた。
「行ってこい」
「はい」
「大丈夫。胸張って」
ヨンチョリは、天馬のその言葉に少しだけ背筋を伸ばした。
「はい」
校門をくぐるヨンチョリの頼もしい背中を見送りながら、天馬はふと自分の左手を見た。
薬指に、シンプルな結婚指輪が光っている。
朝の光を受けて、小さく、確かに。
天馬は、空を見上げた。
空は広い。
この向こうに、海を隔てて神戸がある。
同じ指輪をした愛しい人が、今日もきっと、どこかで教室へ向かっている。
■■■
その頃。
神戸市内。
高いビルの二十五階にある学校で、一人の新人教師が新入生を連れて廊下を歩いていた。
すずは、あの後、努力を積み重ね、いくつもの免許を取得した。
当初の夢だった幼稚園教諭の免許を取得したのだが、子どもたちと関わるうち、「もう少し深く学びたい」という思いが湧き上がり、大学に少し残って中学・高校の国語の教員免許も取得した。
さらに、かつての自分のように傷つき、居場所を失った子どもたちの心に寄り添うため、臨床心理士の資格まで取得。今はさらに上のカウンセラー資格を取るべく、教壇に立ちながら勉強を続けている。
「警告しとくね」
エレベーターの中で、すずは隣に立つガチガチに緊張した新入生へ向かって、にこりと笑って言った。
新入生は、びくりと肩を揺らした。
「え?」
「この学校、最初はちょっとびっくりするかもしれない」
すずの左手には、天馬とお揃いの小さな結婚指輪が光っている。
紺色の清楚なワンピース。
白い襟。
腰まであった長い髪は、今は柔らかくまとめてシニヨンにしている。
昔よりずっと大人になって、知識も経験も積んだけれど、笑うと少しだけ子鹿のような愛らしい雰囲気が残っている。
「でも、大丈夫」
すずは、新入生の目を見て優しく言った。
「息、吸って」
新入生が、戸惑いながらも小さく息を吸う。
「うん。大丈夫だよ」
エレベーターが二十五階に着いた。
静かに扉が開く。
その瞬間、廊下の奥、一番手前の教室から、やたら野太く大きな声が響いてきた。
「お前ら生きてるかー!! 朝やぞ!!」
新入生が「ひっ」と声を漏らしてびくっとする。
すずは、くすっと笑った。
「大丈夫。あれは通常運転」
「通常、なんですか……?」
「うん。かなり通常。ちょっと声が大きいだけ」
廊下の向こうで、少し白髪の増えた佐伯先生が、相変わらず大きな声で生徒たちを笑わせている。
すずは、その懐かしく頼もしい声を聞きながら足を進めた。
かつて、自分がそうしてもらったように。
怖くて、緊張して、どこに立っていいかわからなかった自分の手を、大人がそっと引いてくれたように。
今度は、自分がこの子を教室へ連れていく番だった。
「先生の名前、もう一回言うね」
新入生が、少しだけ顔を上げる。
すずは、教室の扉の前で立ち止まり、微笑んだ。
「西倉すず。今年からこの学校に赴任しました。私も新人だから、一緒に慣れていこう」
「……はい」
「よし」
すずは、教室の扉を開けた。
中には、カラフルな面々が待っていた。
明るい髪の子。黒髪の子。
いろんな肌の色。いろんな瞳の色。
制服の子。私服の子。
どこの言葉かわからない声も聞こえる。
日本人と外国にルーツのある子が、半分ずつくらいだろうか。
にぎやかで、少し落ち着きがなくて、でも不思議と温かい空気が流れる教室。
すずは、胸の奥が少しだけ震えるのを感じた。
ここは、あの日の自分がたどり着いた場所と同じ匂いがする。
怖くて。
眩しくて。
それでも、どこかで待っていてくれた場所。
すずは、教室に向かって、よく通る優しい声で呼びかけた。
「はい、こんにちは」
何人かが振り返る。
ざわめきが少しずつ止まる。
すずは、にっこりと微笑んだ。
「さあ、今日は新入生がいるよ」
教室中の視線が、新入生に集まった。
新入生の肩が、ぎゅっと固くなる。
すずは、そっと新入生の横に立ち、その背中に軽く手を添えた。
「大丈夫。息吸って」
小さな声で、もう一度言う。
「大丈夫だよ」
その言葉は、かつて自分が一番欲しかった言葉だった。
そして、今、自分が一番自信を持って渡せる言葉だった。
新入生が、震えながらも一歩前に出る。
すずは、その姿を温かく見守りながら、ゆっくりと教室を見渡した。
生徒たちの向こう。
大きな窓の外に、神戸の街が広がっている。
ビルの窓。
港。
海。
瀬戸内の光。
すずの視線は、自然と海へ向かった。
春の光を受けた海は、眩しいくらいにきらきらと輝いていた。
あの日、逃げるようにこの街へ来た自分が見上げた空。
怖くてたまらなかった教室。
泣きながら歩いた道。
パン屋の焼きたての匂い。
武庫川の夕暮れ。
天馬の熱い手と、綺麗なヘーゼルアイ。
玲花の笑い声。
陸の大きな背中。
佐伯先生の魂の叫び声。
全部が、ここにつながっている。
すずは、左手の指輪にそっと力を込めた。
同じ空の下で、天馬もきっと、同じようにきらりと輝く瞳で誰かを教室へ送り出しているはずだ。
人生は、思ったよりしんどい。
でも、思ったより遠くまで来られる。
思ったより、誰かが手を差し伸べてくれる。
思ったより、自分の足は走れる。
そして、どんな時も。
これからだ。
すずは、海の光を胸いっぱいに吸い込むように、静かに息をした。
教室の中で、「よろしく!」と新しい歓迎の声が生まれる。
神戸の海は、どこまでも明るく、未来を祝福するように輝いていた。
ついに終わりました。書き上げてはいたものの、ここにアップするとなると色々と変なところが目について、たくさん書き直しました。
これは、自分が幼稚園教諭を取得して、児童養護施設施設で働くようになってから書き溜めていた物語です。天馬のモデルは、ローラです。ローラの日本人?いや、外人?どっち?みたいなそういう雰囲気です。
陸のモデルは、疲れ切って目がしょぼしょぼしてる小栗旬です。玲花は玲花はウォニョンちゃんを連想しながら書きました。すずは、有村かすみちゃんのイメージで書きました。
実際の企業名を出すかどうかすごく悩んだのですけども、自分が勤めていた頃に、日本生命からの手厚いサポートがあったりして、すごく印象に残ってたので書きました。
キャンプに行く時のテントにも日本生命のロゴが入ったり、子供たちにUSJのチケットを下さった記憶があります。
本当にいろんな背景の子どもたちがいて、普通の学校に行くことが、背景的にも学力的にも難しい中で、大学に行くのは少数です。今は自分は、全く違う職種についてますが、土日は養護施設に行ったり、里親をして関わっています。
これからもファンタジーを描きながら、時々は、こういう作品が書けたらいいなぁと思います。
とっても長い作品ですが、評価をくださったり、ブックマークをいただきありがとうございます。
初めてのランキング入りもこの作品で果たしました。
ありがとうございました!




