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俺のこと、めんどくさい?

 翌週の水曜日。

 天気は朝から雲一つない快晴で、初夏特有の少し汗ばむような陽気だった。


 神戸に現れた天馬は、いつもより明らかに、少しだけきちんとした格好をしていた。

 アイロンが当てられた淡い水色の半袖オックスフォードシャツに、細身のベージュのチノパン。

 足元は汚れ一つない真っ白なスニーカー。

 目深に被ったキャップの下の髪も、無造作に見えてワックスできちんと整えられていた。

 誰の目から見ても、明らかに「気合が入っている」とわかる出立ちだった。


 天馬は朝一番で、まっすぐ職員室に向かった。


「天馬! お前、今日はどうしたんや!!」


 担任の佐伯の前に行くと、天馬は無言のままモデルのようにポーズをとった。

 左に重心をかけ、右に重心を移し、最後にくるりと一回転までして見せる。


「……今日、放課後に鈴木さんのお母さんのお見舞いに行くっス。変じゃないすか?」

「バツイチの俺に聞くなー!!!」

「……なんでも相談せぇ言うたじゃないすか」

「たかが見舞いに気合入りすぎなんじゃー!!!」


 佐伯の大きなツッコミの声に、職員室中の視線が集まった。

 この学校の職員室はビルの二十階にあり、全日制、定時制、通信制、どのクラスの生徒も利用する開かれた空間だ。


「え、あの子めっちゃかっこいい」

「海外のモデルみたい」

「定時の子かな……?」


 すれ違った全日制クラスの制服姿の女子生徒たちが、ひそひそとうわついた声を上げる。


「あはは、西倉くん、今日はお見舞いなのね? 清潔感があって、とっても素敵よ」

「うす」


 声をかけてきたのは、スクールソーシャルワーカーの木村妙子だった。

 二年生の春、天馬が前の高校を退学になり、荒んだ状態でこの学校へ転校してきた時に、親身になって世話をしてくれた恩人とも言える女性だ。


「私なら、念のためにピアスとアクセサリーは外していくかなー! とても似合ってるけれど、大人っぽすぎるからね」

「うす」

 木村のアドバイスに、天馬は素直にコクリと頷き、すぐに耳のピアスを外してポケットにしまい込んだ。ピアスを外す様子が、なんだか色気が溢れていた。


「完璧。とーってもかっこいいわ!病室に入る時には帽子もとってね?」

「カーッ、腹立つくらいイケメンやな。無駄遣いすな」


 木村は嬉しそうに拍手をしてばっちりと親指を立て、佐伯は憎まれ口を叩いた。

 天馬は「行ってきます」と短く頷くと、教室に向かっていった。


 教室に入った瞬間、「おお!」というどよめきが起きた。


「天馬くん、今日なんか……」

 すずが目を丸くして見上げる。

「……何」

「ちゃんとしてる」

「……俺はいつもちゃんとしてる」


 照れ隠しのようにそっぽを向く天馬。

 陸は、なぜか力強く頷いて、拳を上げると、天馬は自分の拳をこつりと当てた。

 すずは不思議そうに、男同士のそのやり取りを眺めていた。


 ■■■


 放課後。

 病室のドアの前で、天馬は改めて帽子を取った。

 学校から一旦立花駅に行き、そこから自転車を立ち漕ぎしてきたので、額にはうっすらと汗が滲んでいた。天馬はそれを手の甲でぐっと拭き取り、深く深呼吸をしてから、コンコン、と控えめにノックした。

 その一連の仕草が、普段の天馬からは想像できないほど丁寧で、後ろで見守っていたすずは、少しだけ胸がトクンと鳴った。


 扉を開ける。


「ママ、天馬くん、来てくれたよ」

 母の恵美は、ベッドの上で上体を起こしていた。

 すずの後ろに立つ背の高い天馬の姿に気づくと、ぱっと顔を明るくした。


「あ、天馬くん?」

 天馬は病室の入口で立ち止まり、深く、綺麗な一礼をした。


「西倉天馬です。同じクラスです。いつも、すずさんと仲良くさせてもらってます」


 すずは、天馬の口から出た「すずさん」というよそよそしい響きに、一瞬だけビクッと固まった。

 母は目を丸くして、それからふふっと笑った。


「まあ、ちゃんとしてる子やねえ。恵美です。いつもすずを送ってくれてるんやって? ほんまにありがとうね」

「いえ。僕が勝手にしてるだけなんで」

「それでも助かるわ。すず、ぼーっとしてる時あるから。心配で」

「ママ!」

「ほんまのことやん」

 母は楽しそうに笑った。


 病室の空気は、すずが心配していたよりもずっと穏やかだった。

 天馬は窓際に立ち、外した帽子を両手で体の前に持っている。いつもの少しだるそうに重心を崩した立ち方ではなく、背筋をピンと伸ばしているから、狭い病室の中では普段よりさらに大きく見えた。


「天馬くんは、どこの子ぉなん?」


 母が、親戚のおばちゃんのような気安さで何気なく聞いた。

 その瞬間、天馬の指が、持っていた帽子のつばを少しだけ強く握りしめた。

 ほんの一瞬の、わずかな力み。

 でも、ずっと彼を見ていたすずは、それに気づいた。


「尼崎です」

 天馬は、表情を変えずに答えた。


「尼崎なんや。近いねえ」

「はい。武庫川沿いなら、すぐなんで」

「自転車で来てくれるんやろ? 若いってすごいわ。私やったら武庫川の風に負けてまう」


 母が冗談めかして笑い、天馬も、それに合わせて少しだけ口角を上げた。

 その時、病室の外から看護師の明るく大きな声が飛んできた。

「恵美さーん! 検温やでー!」

「あ、はいはい」

 母が入り口の方へ顔を向ける。


 天馬はすぐに帽子を持ち直し、邪魔にならないよう一歩下がった。


「僕は外で待ってます」

「ええのに、そこに座っとき」

「廊下にいますんで」

 天馬は再度軽く頭を下げて、病室の外へ出た。


 ひんやりとした廊下に出た途端、天馬は「ほ……」と長く、細い息を吐き出した。

 緊張したが、思ったよりも好印象を残せたような気がした。来る前にスマホで「彼女の親への挨拶」と調べて予習した通りに振る舞えた。ちゃんと一人称を「僕」と言ったし、帽子も取った。受け答えもハキハキできた。

 完璧だ。そう、思った。


 だが。

 薄いドアの向こう、病室から漏れ聞こえた母の一言に、天馬の心臓はどくんと嫌な音を立て、足元の床が急に真っ暗に抜け落ちたような感覚に襲われた。


『あの子、外人なん?』


 確かに、そう聞こえた。


『いや、インスタの写真で見たら、まあ顔立ちはっきりしてんなくらいやったけど、実際に見たら目の色もめっちゃ薄いし。背ぇも高いし。ほんで、手の甲まで真っ黒やんか』


 天馬は、胸の奥を冷たい刃物でえぐられたような痛みを覚えた。




<真っ黒やんか。>



 言われ慣れている言葉だ。珍しくもない。悪気がないこともわかっている。

 でも、大好きな子の母親から向けられた無邪気なその言葉は、なぜこんなにも胸を抉るのか。


 どこの子なのかと聞かれた時、自分が一瞬躊躇したことを、自分自身が一番よくわかっていた。

 父親がチベット系で、母親はイギリス系です。

 日本で生まれ育ちましたが、日本国籍はまだ持っていません。

 これから取る予定です。


 そのことを、堂々と言うべきだっただろうか。

 急に、前の高校での出来事が、フラッシュバックのように脳裏によぎった。


 ――お前、日本語わかってるか?


 三年の先輩に言われた一言だった。バスケット部の態度の悪い先輩にそう言われて、天馬は「自分はずっと日本に住んでるんで、ペラペラです」と冷静に答えた。


 ――それやのに、俺の言うことが理解でけへんのか。そこどけ言うとるねん。生意気やぞ。


 理不尽な命令を拒否した時の出来事だった。

 天馬はその三年生を真っ向から睨みつけ、

「そんなこと言う人間のせいで、日本に差別主義が蔓延るんじゃないんですかね」

 と言い返した。

 それが、だめだった。

 三年生は「調子乗ってんなぁ!」と激昂し、天馬の脛を靴の裏で強く蹴りつけた。


 ――日本が気に入らんねやったら、国に帰れや! ミャンマーだかネパールだか知らんけど!!!


 その瞬間、天馬の中の何かが、ブツンと音を立てて切れた。

 そこからの記憶は曖昧だ。

 相手の先輩を突き飛ばし、馬乗りになり、拳を振り下ろそうとした時に監督が止めに入ったと、後から聞いた。

 バスケットボールの推薦で入った高校だった。必然的に停学になり、部活には居場所がなくなり、その後は学校自体に行きづらくなってしまった。

 そのままずるずると不登校になり、退学して、今の通信制高校に転校してきたのだった。


 母方の祖父がいるイギリスには、幼い頃に何度か行ったことがある。

 母方の祖母は兵庫県宝塚市の人だが、早くに亡くなったと聞く。

 宝塚に何人か親戚が残っていると聞くが、あった事は無い。


 父方のルーツであるチベットには、一度も行ったことがない。

 それでも、自分の顔はチベット系によくある顔立ちだと皆が言う。そもそも「チベット」という国のパスポートがあるわけではない。父方の家族はチベット系だが、ネパールに逃れて暮らしてきた難民の家系だった。

 だから天馬の国籍は、行ったこともない「ネパール」になっている。

 しかも、チベット語もネパール語も、一言も話せない。中身は完全な関西人だ。


 もし「チベット」や「ネパール」と聞いたら、すずの母親はどんな印象を持つだろうか。

 遠い土地。よく知らない民族。不安定な、どこかの国。


<普通に生まれたかった>


 天馬は、そんな考えを打ち消すように、白くなるほどぐっと拳を握り、湧き上がる不安と自己嫌悪に耐えた。


 その時、病室の中では、すずがひどく困ったような、泣きそうな顔で母親を見つめていた。ぎゅっと唇を結び、どうにか誤魔化そうと口角を無理やり上げる。

 母に悪気がないのはわかっていた。ただ、素朴な疑問として思ったことを聞いただけなのだろう。

 でも、すずはさっき、天馬の長い指が帽子を強く握りしめたことをはっきりと覚えていた。


「ママ……」

「え、そうやろ? かっこええ顔してはる」

「う、うん……」

「なんやその歯切れの悪い返事。あんたも知らんわけやな」


 どう言えばいいのかわからなかった。

 その時、廊下の方でかすかに足音が動く気配がした。

 天馬が、外で聞いていたのかもしれない。そう思った瞬間、すずの胸が、きゅっと痛いくらいに縮んだ。


 ■■■


 検温が終わり、面会時間も終了に近づいたので、すずと天馬は揃って病室を出た。

 母は最後まで明るかった。


「天馬くん、また顔見せてね。今度はゆっくり」

「はい」

「すず、帰り気をつけてな」

「うん。また来る」


 病室を出て、エレベーターへ向かう廊下を歩く。

 天馬は、一言も喋らなかった。

 いつもなら、「荷物持つわ」とか「駅まで行くぞ」とか、ぶっきらぼうだけれど優しい言葉を投げてくるのに、その日は妙に静かだった。


 病院を出る。

 夕方の武庫川へ向かって吹き抜ける風が、今日も強く吹いていた。

 天馬は無言で自転車を押し、歩く。

 すずも、その隣を黙って歩く。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 橋の下では、今日も誰かが楽器を練習していた。昨日とは違う、サックスの少し掠れた哀愁のある音色だった。

 いつもの眼鏡橋が近づいてくる。

 橋の中央にあるバルコニーのようになっている出っぱりの部分まで来ると、天馬はいつものように自転車の足を止め、川の方を向いた。

 川の風が、二人の間をごうごうと抜けていく。


 すずは、冷たい鉄の手すりを両手で握った。

 言うべきか迷った。

 でも、ここで黙ったままだと、何も言えずにただヘラヘラと笑って誤魔化していた、昨日までの自分に戻ってしまう気がした。


「あの」

「うん」

「さっきのって……あの、」


 聞こえてた?


 すずは、たったそれだけの言葉すら、恐ろしくて聞けなかった。

 天馬はすぐには答えなかった。

 川の遠くを見たまま、彫りの深い横顔を沈黙させている。


「……俺って黒いやん?」


 ぽつりとこぼれたその声に、すずはハッとして瞬きをした。


「目も、うっすい茶色やし」

「……うん」

「背もでかいし。髪は真っ黒やけど」


 天馬は、自嘲するように自分の髪を少しだけ触った。


 聞こえていたのだ。

 すずは反射的に「ごめんなさい」と謝らなくちゃと思ったが、それすらも彼を傷つけるような気がして、喉の奥が詰まって言葉が出ない。


 傷つける? 母の言葉はただの真実なだけだ。

 でも、天馬はひどく傷ついた、迷子のような顔をしている。

 その理由を、複雑な感情の正体を、的確な言葉にできるほど、十七歳の二人にはまだ人生の経験が足りていなかった。


「顔も、なんか普通の日本人とは違うって、昔からよく言われる。『外人なん?』『どこの国?』『ハーフ?』『クォーター?』『帰国子女?』『日本語うまいね』『何人なん』『どこの子なん』」

 天馬の口から、呪文のようによどみなく言葉が出てくる。それは過去に何百回と投げかけられてきた言葉たちの羅列だった。淡々とした声だった。

 でも、感情を殺したその淡々とした声が、すずにはひどく痛かった。


「もう、慣れてると思っててんけどな……」


 天馬は手すりに寄りかかり、視線を落とした。


「でも、さっき聞かれて、俺、ただ『尼崎の子や』言うた。ほんまは色々ある。父親のルーツのことも、母親の国のことも、国籍のことも。俺、日本国籍、実はまだ持ってへんしな」


 最後に笑った微笑みが、痛々しくて、


 すずは息を止めた。


 天馬は、少しだけ自嘲するように笑った。けれどその笑い方は、全然楽しそうではなかった。今にも泣きそうな顔だった。


「でも、言えへんかった。ややこしいし、引かれるかもって思って。ただ、尼崎ですって誤魔化した、ぎり、日本人に見えるかなって思ってたけど。甘かったな。」

「……」

「でも、尼崎なんはほんまやで。俺は自分を、ただの尼崎の子やと思ってる。武庫川で育ったし、立花で飯食って、チャリで走って、こっちの道もあっちの道も知ってる」

「うん」


 すずは、気の利いた慰めなんて何も言えなかった。

 でも、何も言わないままだと、天馬との間に見えない透明な壁ができて、大切な何かを永遠に逃してしまう気がした。

 すずは、下を向いている天馬の横顔を、真っ直ぐに見上げた。


「私は」


 すずは、ぎゅっと目を瞑った。

 


 だせ!勇気…!

 


 だせ!!声!!!


「私は、かっこいいと思う!!!!!!」


 自分でも驚くくらい、お腹の底から絞り出した大きな声だった。

 一瞬、吹き荒れていた武庫川の風がピタリと止まったような気がした。

 天馬が、目を丸くして完全に固まった。


「……は?」

「天馬くんの、その、えっと、薄い茶色の目も! 真っ黒な髪も! 背ぇ高いところも! 顔立ちがはっきりしてるところも! 遠くから自転車で迎えに来てくれるところも! 武庫川の道を知ってるところも! 全部、私は、かっこいいと思う!」


 一息に言い切ると、すずの顔は耳の先までどんどん熱く沸騰していくのがわかった。


「だから、えっと……外人とか、何人とか、私にはまだちゃんとわからんこともあるし、悪気がなくても軽く言ったらあかんこともあるって思うけど……でも!」


 すずはぎゅっと手すりを握りしめ、天馬を真っ直ぐに睨みつけた。


「天馬くんが自分のことを全部言えへんかったからって、天馬くんが悪いわけじゃないと思う!!!! 」


 叫び終えると、息が切れて肩が上下した。

 天馬は、何も言わなかった。

 ビー玉みたいな薄い茶色の目で、ただ驚いたようにすずを見つめている。


「……すず」

「はい!!!」

「声、でか」

「っ!」


 すずは一瞬で茹でダコのように真っ赤になった。


「ご、ごめんなさい! 兵庫の人の声が大きいから、うつったのかも……!」

「はっ、なんやそれ。兵庫のせいにすんな」

「でも佐伯先生も看護師さんもリョンファちゃんも、みんな声でかいし!」

「俺もでかいって言いたいん?」

「天馬くんは声が低い!」

「それは悪口?」

「ち、違う! 褒め……いや、わからへん!」


 必死に両手を振って弁解するすずを見て、天馬はこらえきれないように「ふっ」と吹き出し、それから声を出して笑った。

 その笑い顔を見て、すずの強張っていた肩の力が抜け、少しだけ安心した。


 完全に救えたわけではないと思う。

 天馬の中にある蟠りは、すずが大声を出したくらいの一言でどうにかできるほど軽くはないはずだ。国籍のことも、父のことも、母のことも、きっとすずが想像もつかないような痛みがたくさんある。

 でも、少なくとも今、天馬はさっきまでの死にそうな顔をやめて、笑ってくれた。

 それだけで、すずは胸の奥がじんわりと温かくなった。


 天馬は、再び川を見た。目元が少しだけ赤い。

「俺、尼崎の子やねんけどな」

「うん」

「でも、それだけじゃない」

「……うん」

「…俺のこと、めんどくさい?」


 すずは迷わず、力強く首を横に振った。


「私、天馬くんの顔がどうとか、何人とか、そんなん一回も深く考えたことない!」

「え…それは……どうなん。多少は考えてほしいけど」

「だって、そんなん関係なく、私は天馬くんと仲良くなりたいだけやもん……」


 天馬は、少しだけ息を飲んだ。

 打算も何もない、真っ直ぐすぎるその言葉が、ささくれ立っていた天馬の胸の奥に、すっと綺麗な水のように滲み込んでいった。


「それは……めっちゃ嬉しいな」


 すずは、それ以上は踏み込んで聞かなかった。

 聞きたいことは山のようにあった。チベットのこと。イギリスのこと。国籍のこと。離れて暮らしているらしい母親のこと。

 でも、今は根掘り葉掘り聞く時ではない気がした。

 天馬が自分から言いたくなったら、その時はしっかり聞く。そう決めた。


 橋の上を、車が何台も通り過ぎていく。

 武庫川の風は今日も強い。サックスの音は、昨日より少しだけ遠く聞こえる。

 オレンジ色の夕焼けの光が、川面を細くキラキラと揺らしていた。


 天馬は、自転車のハンドルに手を置いたまま、憑き物が落ちたような穏やかな顔でぽつりと言った。


「……帰ろっか」

「うん、またね」


 天馬は自転車に跨った。

 すずは、すずのマンションの方へ歩き出そうとした。

 

 すずはふと空を見上げた。

 夕暮れの色は、昨日見たものと少し違って見えた。

 同じ武庫川。同じ橋。同じ風。

 でも、昨日より少しだけ、天馬の抱えるものを知った。

 そして、昨日より少しだけ、臆病だった自分も変われた気がした。


「あ!!!」


 またもすずが大声を上げた。


「うおっ、何? なんか忘れもん?」

「ちが、ま、待って!」


 すずは背負っていたリュックを慌てて前に抱え込み、ごそごそと中を探った。

 そして、ハンカチに包まれた、可愛くリボンが巻かれた小さな瓶を取り出した。


「これ、あの、作ったねん。よかったら、おやつで食べてほしい!」


 スーパーでよく売っている、蓋が赤いチェック柄の空き瓶。その中に、小さなハート型と市松模様のクッキーがいくつも詰まっている。

 瓶の首の部分には、光沢のある白いリボンが不器用ながらも可愛らしく結ばれていた。


「いつも送ってくれてるし、何かお礼がしたいと思って、や、焼き、ました……。お、おいしく、できたと、は、思うけど……ああああの、もし食べてみて不味かったら、全然捨てて!」


 天馬は、差し出されたすずの小さな手の中にある瓶を、信じられないものを見るように凝視した。

 あの日、インスタグラムで見て「可愛い」と眺めていたあのクッキーが、まさか自分のためのものだとは、夢にも思いもしなかったのだ。


 天馬は、自転車を橋の際に停め直すと、両手でそっと、壊れ物でも受け取るようにその瓶を受け取った。


「……」

「め、迷惑やった!? 男の人って、手作りとか重いって言うし……」

「いや……なんか、感動して」

「え!?」

「すごいな。クッキー手作りとか。」

「いや、あの、簡単なやつです、はい!」


 緊張で変な敬語になっているすずに、天馬は思わずふっと笑った。


「俺、家、親おらんからさ。誰かの手作りのもんとかもらうの、めっちゃ久しぶりやし。ほんまに嬉しい」


 天馬は、手の中のクッキーを見て、それからじっとすずの目を見た。


「ありがとう。大事に食べるわ」


 そして、へにゃりと、目尻を下げて笑った。

 それは、すずが今まで見たことのない、心の底から嬉しそうなかわいい笑顔だった。大人びた雰囲気の下に隠れていた、十七歳の少年らしい、年相応の笑顔。


「行く。ほんまにありがとう」


 天馬は瓶を自分の鞄の一番上に大事にしまうと、自転車に跨った。


「明日な」

「う、うん! 明日!」


 天馬は立ち漕ぎで、眼鏡橋の向こう、尼崎の街の方へ颯爽と走り去っていった。

 すずは、その広い背中が小さく見えなくなるまで、ずっと見送っていた。


 ■■■


 その日の夜。天馬のインスタグラムが更新された。


 ――――

 うますぎた。

 ♯クッキー ♯また食べたい

 ――――


 一枚目に、もらったクッキーがたくさん入った瓶の写真。

 二枚目に、わずか数時間で空っぽになった瓶の写真。


 投稿して数秒後、すぐに二つの「いいね」がつき、間髪入れずに天馬のLINE通話がけたたましく鳴った。親方からだった。


『おいー!!!! 天馬、見たぞ! よかったなおいー!!!! これは次、お礼せなあかんな!!!! お礼のデートに誘う口実ができたやんか!!』


 電話の向こうから、陸の騒がしい声も聞こえてくる。

『うわーこれはマジで嬉しいやつやん。天馬のためにわざわざ焼いたんやな、すずちゃん』


 当の本人である自分よりも興奮している二人に、天馬は苦笑したが、「そうか、お礼にかこつけて誘えるのか」と思うと、急に心臓が早鐘を打ち始め、嬉しさが込み上げてきた。


「何しましょかね、お礼」

『よっしゃー作戦会議じゃ! 天馬、今すぐ湯遊び広場に来い!』


 そうして今夜もまた、尼崎の銭湯で、男三人による熱く騒がしい恋愛会議が開かれるのであった。

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毎日更新予定です。完結約束、ハッピーエンドです(^ ^)

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