魔王、寝不足で朝の戦に敗北する
水曜の朝、9時40分。
拠点の一つである城塞のデスクで、魔王吹雪は魔法の石板の、真っ白な画面をただぼんやりと眺めていた。
その顔には、いつもの知的な探求心ではなく、どうしようもない気怠さが浮かんでいる。
「…健太先輩。本日の朝の作戦行動は、完膚なきまでの敗北でした」
彼は、対面の席で静かに茶を飲んでいる竜の健太に、力なく報告を始めた。
「明け方、午前4時に覚醒したはずが、気づけば4時45分。貴重な45分が、虚無に消えていました」
吹雪は、今朝の戦いの記録を、まるで敗戦の将のように辿っていく。
「本来であれば、叡智の探求の後、すぐに兵糧(料理)の準備に取り掛かるはずでした。しかし、我が魂は、魔力収集(ポイ活)という名の、甘い罠に囚われてしまったのです」
気づけば5時45分。一時間が、溶けていた。
「補給(買い物)は昨日済ませていたので、調理はすぐに終わるはずでした。しかし、これもなぜか一時間を要し、気づけば6時45分。沐浴と片付けを終え、城を出立できたのは7時半過ぎ。執務室にたどり着き、こうして石板を開いた今、すでに10時半の撤退時間まで、残り1時間もありません」
吹雪は、深く、長い溜息をついた。
「日誌を書く気力が、もう湧いてこないのです。今日の戦は、始まる前に、すでに終わっていたのかもしれません。一日が、このまま『ぐだぐだ』のまま過ぎ去っていく予感がします」
健太は、その嘆きを静かに聞いていた。
彼は、吹雪の緻密な時間分析には一切触れず、ただ、一つの本質的な問いを投げかけた。
「吹雪よ。昨夜は、よく眠れたか?」
その、あまりにも単純な問いに、吹雪はハッとした。
そうだ。昨夜は、なかなか寝付けなかったのだ。
「…いえ。あまり」
「だろうな」
と健太は言った。
「王は、休息なくして王国を統治できぬ。兵士は、休息なくして戦場に立てぬ。お前の壮大な計画も、緻密な戦略も、全ては『質の良い睡眠』という、盤石な土台の上にあってこそ意味を成す。その土台なくして建てた城は、砂上の楼閣に過ぎん」
その時、欠伸をしながら、アリアがやってきた。
「あ、ふぶきん! おはよう! わたし、昨日はぐっすり眠れたから、すっごく元気!」
彼女は、その場で気持ちよさそうに、ぐーっと背伸びをした。
その姿は、生命力そのものに満ち溢れていた。
吹雪の気怠さと、アリアの元気。その対比は、あまりにも鮮やかだった。
原因は、ポイ活の誘惑でも、調理に時間がかかったことでもない。
全ての敗因は、その前夜にあったのだ。
吹雪は、そっと魔法の石板を閉じた。
「…先輩の言う通りです。今日の戦は、昨夜の時点で、すでに敗北が決していた。ならば、これ以上無駄な抵抗はすまい」
彼は、立ち上がった。
「今日は、もう戦いません。ただ休み、英気を養うことに専念します。そして今夜は、何よりも深く、良い眠りにつくことを、最優先事項とします」
それは、敗北宣言であると同時に、明日への勝利を誓う、賢明な王の決断だった。
「ふぶきん、もうおしまい? じゃあ、おやつにしよ!」
アリアの屈託のない声が、静かな執務室に響く。
魔王は、その声に、静かに頷いた。
今日のところは、それでいい。
明日の朝、すっきりと目覚めた自分が、きっと今日の敗北を、取り返してくれるはずだから。




