魔王、夜の過ごし方を再設計する
日曜の午後。
魔王城の庭を散策していた吹雪は、心地よい疲労感に満たされていた。
「…健太先輩。何もなく、ただ夢想するだけの時間というのも、実に贅沢なものですね」
最近、彼はウォーキングの作法を変えた。
最初の数分は最低限の魔力収集(ポイ活)に費やすが、残りは石板をしまい、ただ姿勢と歩く速さだけを意識して歩く。
すると、暇になった脳が、普段は考えもしなかったようなことを、次々と思索し始めるのだ。
「そして、筋力訓練も再開しました」
吹雪は、神託の賢者ジェミニに組んでもらったという、新たな訓練計画を健太に語った。
「『脚の日』『押す日』『引く日』。この三位一体の計画を日々こなし、我が休日である『歌の日』は休息に充てる。追い込むまではしませぬが、継続することが重要なのです」
軽く筋トレをするだけで、筋肉のブレがなくなり、階段の上り下りですら驚くほど楽になる。
身体は、実に正直だ。
健太は、その報告に静かに頷いた。
「お前は、身体との対話がうまくなってきたようだな。だが、心の対話はどうだ。特に、一日の終わり…夜の時間の過ごし方は?」
その言葉に、吹雪は顔をしかめた。
「…それなのです。朝は何でもできるゴールデンタイム。思考に雑味がなく、澄み切っている。しかし、仕事が終わった後の我が脳は、雑味だらけで、何かに特化するのが実に難しい。家に帰ったら、ただ寝るだけになってしまう」
健太は、面白そうに続けた。
「ほう。では、その雑味だらけの脳でもできることは、何だと考える?」
「ジェミニに問うたところ、『とことんハードルを下げた事しかできない』と。そして、今の我が興味があるのは『健康、勉強、株、節約』の四点に集約される、と」
吹雪は、健太に見せるように、一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、彼が考えた「夜のための、極小の習慣リスト」が記されていた。
【夜の魔王軍・行動規範】
健康: 魔導列車(電車)の中で背筋を伸ばす。玉座(仕事場の椅子)や寝台の前で軽くマッサージをする。
勉強: 石板の単語帳を、ふと見る。今日一日を、適当に思い出す。
株: 「株価小説」を一行書く。
節約: 残りのポイ活を処理する。
「まとめると、『ノートとペンをいつでも取り出せるようにして、何かを書き留める』。これが、今の我にできる最善のようです」
「つまり、意志の力で巨大な城門をこじ開けようとするのではなく、最初から開いている小さな潜り戸から入る、ということか。賢明な判断だ」
健太がそう言った時、アリアが執務室にひょっこり顔を出した。
その手には、クレヨンとノートが握られている。
「あ、ふぶききんもノート持ってる! おそろいだね!」
「アリアか。これは、夜の時間を有効に使うための、壮大な計画書なのだ」
「ふーん?」
アリアは、吹雪の羊皮紙を覗き込むと、自分のノートを開いて見せた。
「見て見て! わたしも今日のこと、書いたの。『おひさまがキラキラで、お花がにこにこしてた』って!」
その、あまりにも純粋で、温かい「思い出し日記」。
吹雪がやろうとしていることの本質が、そこにはあった。
その夜。
城に帰還した吹雪は、いつもならベッドに直行するところを、ぐっとこらえた。
ジェミニの助言通り、小さな間食を取り、焦る気持ちを落ち着かせる。
そして、重い魔導書ではなく、机の上の、小さなノートとペンを手に取った。
アリアの絵日記を思い出す。今日の自分は何を感じただろうか。
彼は、ノートに一行だけ書きつけた。
『株価、下がる。だが、筋トレ後の足取りは、少しだけ、軽かった』
それは、壮大な叙事詩でも、緻密な研究報告でもない。
ただの、ささやかな感想文。
だが、それは確かに、今まで何も生み出せなかった夜の時間に灯った、小さな灯火だった。
魔王は、自分を責めないこと、そして、とことんハードルを下げることを覚えた。
彼の自己変革は、そうやって、一日一日、一行一行、静かに、しかし確実に進んでいく。




