魔王は日々のストレッチを怠らない
「フン…ストレッチの極意とは、呼吸にある」
朝日が差し込む部屋で、魔王を自称する男、吹雪はゆっくりと息を吐きながら床に伏せていた。フローリングの冷たさが心地よい。
「息を吐きながら、ゆっくりとだ。そうすると、ここで限界、という壁を難なく乗り越え、次の領域へと到達できる」
「それ、この前行った整体の受け売りだろ」
ソファで分厚い本を読んでいたドラゴンの健太が、ページから目を離さずに言った。彼は吹雪の先輩であり、その壮大な独り言の聞き役だった。
「我はあらゆる知識を吸収し、自身の力とする魔王なのだ。そのベースがどこであろうと問題はない」
「はいはい。やりすぎて痛めるなよ。健康は失ってからじゃ遅いんだからな」
「わかっている。だからこそ、日々の積み重ねが重要なのだ。無理せず、毎日続けられる環境を手に入れることこそ、世界征服への第一歩」
「ふぶきーん、見て見てー!」
不意に、部屋の隅で丸まっていた幼馴染のアリアが、奇妙なポーズのまま声を上げた。
「アリア、何をしている」
「タコさんのポーズ! これでふぶきんの世界征服、お手伝いできるかな?」
屈託なく笑うアリアに、吹雪は少しだけ口元を緩めた。
「…まあ、悪くない。魔王軍の特殊部隊に検討しておこう」
吹雪の戦いは、なにもストレッチだけではない。
彼の朝は、まるで精密な儀式のように分刻みで進んでいく。
「風呂場と、ここ仕事場での朝イチのストレッチ。そして、時間ができた時にちょこちょこと行う。強制ではない。だが、好機は逃さない。一気に全てを終わらせる必要はないのだ。日常のふとした時に行えるクセをつけることこそが肝要」
「ブログ書く時間がないって、さっきまで悩んでただろ」
健太の冷静な指摘に、吹雪はぐっと言葉に詰まる。
「そ、それは…ストレッチのことを考えていると、様々なインスピレーションが湧き上がってきてだな…」
「それで筆が進まないんじゃ本末転倒だろ」
「そうだ、ラジオ体操だ」
吹雪はぱっと顔を上げた。
「あれは、まんべんなく体全体を支配下に置く、実に見事な儀式だ。習慣化さえすれば、面倒という感情すら超越できる」
「でも、やるタイミングないんでしょ?」
アリアが首をかしげる。
「うむ…この街では、早朝に集う同胞たちの姿も見かけん。ならば、我自らが立ち上がるしかない。いずれ我が城…いや、店を持つ身となった暁には、ラジオ体操連盟に直談判し、この地に健康の福音をもたらすのだ」
「随分と気が早い話だな。まずは自分が毎朝続けるところからだろ」
健太はため息をついた。
吹雪の悩みは尽きない。
通勤という名の遠征ではポイ活に勤しみ、ウォーキングは今後も彼の計画に組み込まれている。
ブログという名の年代記を記す時間も確保したい。
筋トレという名の肉体強化を再開すべきかどうかも、魔王軍の重要議題だ。
「朝は5時に起床し、最低限のポイ活とデュオリンゴを行う。だが、それだけで30分が費やされてしまう。料理の儀式を開始するのが5時半。ここを動かすのは難しい」
彼はぶつぶつと呟きながら、部屋を歩き回る。
「『急がなきゃ』などという感情は、朝の貴重な夢想の時間を奪う悪魔の囁きだ。それは避けたい。となれば…」
「夜にできる準備をしとけって話だろ」
健太が本を閉じて言った。
「結局はそこに行き着く。夜のうちに食器を洗い、米を準備し、野菜を切っておく。やれる範囲でいい。昨日の自分に、明日の自分を助けさせるんだ」
「ふぶきん、これ、明日のサラダ!」
アリアがタッパーを差し出した。中には、やや不揃いだが丁寧にカットされた野菜が入っている。
「気分でやれることをやっておく。それでいいのだな」
吹雪はタッパーを受け取り、静かに頷いた。
「夜のうちに戦闘服を手洗いし、洗濯物を片付けておく。明日の食事の準備も、可能な限り済ませておく。一つ一つは些細なことだ。だが、それらが合わされば、朝に10分以上の時間を生み出すことができる」
そうして生まれた時間で、ブログを書き、未来を想う。
ポイ活という任務を終えた後のウォーキングは、彼にとってただ歩く行為ではなかった。
それは、あらゆる思考から解放され、無心の境地に至るための瞑想の時間。
正しい姿勢で歩くことに集中し、自身の内なる宇宙と対話する、魔王にとってかけがえのないひと時なのだ。
壮大な計画も、日々の地道な積み重ねから始まる。
魔王吹雪の世界征服は、まだ始まったばかりだ。
彼の戦いは、毎朝のストレッチと、夜の皿洗いから、静かに、しかし着実に続いていく。
健太の現実的な助言と、アリアの屈託のない笑顔に見守られながら。




