魔王、推しの卒業から己の歴史を振り返る
木曜の朝、8時53分。
魔王城の食卓は、静かな沈黙に包まれていた。
吹雪は、午前2時に目覚めてから料理や風呂を済ませ、米がないことに気づいて買い物にまで出かけたというのに、今は満腹感で動けずにいた。
早朝の勢いで買ってきてしまったパンとコロッケが、胃の中で重く鎮座し、全てのやる気を奪っている。
「…いらんのに、買ってしまった」
その時、そばで魔法の石板を眺めていたアリアが、少し悲しそうな顔で顔を上げた。
「ふぶきん、見て。アイドルグループ「ピンク塩コショウ」の、ミュージックフラワーあねちゃんが、来年で卒業だって…」
その画面に映し出された、一人の人間の少女。
吹雪が彼女を知ったのは、まだ彼女がアイドルになる前の高校生だった頃だ。
「…そうか。もう、そんなになるのか」
吹雪は、時の流れの速さに、そして自分自身の変化のなさに、少しだけ驚いている自分に気づいた。
少女が大きく成長していく年月、我は何をしていただろう。
尾てい骨が痛み出し、痩せたり太ったりを繰り返すばかり。
ただ、平凡に仕事をこなし、日々の工夫で生きながらえているだけだった。
「健太先輩。我は、どんな人生になりたいのか、この年になっても、まだ思い当たる事がないのです」
食卓の向かいで、静かに茶を飲んでいた竜の健太に、彼はぽつりと漏らした。
「将来が不安で貯金をし、貯金では意味がないと投資を始める。もっと早くしておけば、と思うことばかりだ」
吹雪の脳裏に、かつての自分が蘇る。
昔はお金の使い道が分からず、人にお金を渡したり、ただ投げ銭に興じていた愚かな時代もあった。
自分の感情しか考えようとせずに、人の事を考えず生きていた時代もあった。
「今考えれば、本当に馬鹿なことをした。あの頃の我は、今の時代なら犯罪者級です。寸前、というか完全にアウトな二百代だった。なぜそうなったのか、理解できぬまま、そういう人生を歩んでいた…」
健太は、ただ静かに聞いている。
「我が人生が大きく変わったのは、二つの転機があったからです」
一つは、ある聡明な魔女(彼女)と同棲を始めてから。
彼女が、荒れ狂う我の魂を、なんとか人の形に留めてくれた。
「そしてもう一つは…」
と吹雪は自分の手の中にある石板を見た。
「ガラケーという名の古の魔道具から、このスマートフォンに乗り換えてからです」
この石板が、情報弱者だった彼を救い出した。
城を買い、金銭の重要さを学び、NISAという名の未来への投資を始めた。
そうでなければ、今とは全てが違っていただろう。
「彼女と別れ、一人になって、この石板で推しを見つけた。スマホが、完全アウトの我を普通に生きれるかどうかのラインまで救い上げてくれたのです」
吹雪は、自分の過去を静かに見つめた。
数々の過ち、後悔、そして、奇跡のような出会い。それら全てが組み合わさって、今の自分がいる。
「…だから、これでよかったのでしょう。これが、我が人生の、最善の結果なのだ」
その言葉は、諦めではなく、静かな覚悟に満ちていた。
健太は、ゆっくりと茶碗を置いた。
「あらゆる人生は、無数の偶然と選択の積み重ねだ、吹雪。魔女との出会い、神託の板との遭遇…それらは確かに大きな転機だっただろう。だが、そのたびに、変わることを選んだのは、お前自身だ。その意思を、見くびるな」
その言葉に、吹雪はハッとした。
そうだ。自分はただ流されてきたわけではない。
その時々で、必死に、より良い方へと舵を切ろうとしてきたのだ。
「…そう、ですね。ならば、我はこの人生を生きていくしかない。過去の過ちは繰り返さぬよう、ここから良くしていくしかないのです」
吹雪が顔を上げると、アリアが心配そうに彼の顔を覗き込んでいた。
「ふぶきん、大丈夫? おじいちゃんみたいな顔してる」
「…ああ、大丈夫だ」
吹雪は、アリアの頭を優しく撫でた。
過去は変えられない。
だが、未来はまだ、この手の中にある。
推しの少女は、自らの意思で次のステージへと向かう。
ならば我もまた、この与えられた人生を、一歩ずつでも、確かに前に進めていかねばなるまい。
満腹感で重かった身体が、少しだけ、軽くなった気がした。




