魔王、無料アプリを渡り歩く
久しぶりに歩いた。
城の周りをぐるりと一周。
腰の調子は日に日に良くなり、今日はほとんど痛みを感じなかった。
しかし、その安堵と同時に、身体が重くなっているという厳しい現実も突きつけられる。
「…健太先輩。我が肉体の反乱は、どうやら腰だけに留まらぬようです」
執務室に戻った吹雪は、まるで重大な軍事機密を打ち明けるかのように、竜の健太に語りかけた。
「我が軍師ジェミニに問うたところ、『ライザップ』という名の、百戦錬磨の傭兵団の戦術を入手しました」
吹雪は、羊皮紙に書き出したその戦術を読み上げる。
「彼らの常勝の秘訣は、三位一体の戦略にあり。第一に、徹底した『兵站管理(食事管理)』。糖質という名の敵の補給路を断ち、タンパク質という名の屈強な兵士を増やす。第二に、効率的な『軍事訓練(筋力トレーニング)』。基礎代謝を上げ、何もしなくても敵を殲滅する、精鋭部隊を育成する。そして第三に、挫折させぬ『専属軍師(専属トレーナー)』の存在…」
そこまで語ると、吹雪は羊皮紙を置いた。
「結論として、この聖戦の勝敗を分ける最も重要な要素は、兵站…つまりは『食事』なのです」
「ふむ。いかなる屈強な軍も、腹が減っては戦はできぬ、ということか。古の時代から変わらぬ真理だな」と健太は静かに頷いた。
吹雪の新たな決意は固まった。
だが、モチベーションには波がある。「健康のため」という大義だけでは、この長期戦を戦い抜く自信がない。高価な軍師を雇う資金も、今の魔王軍にはない。
「そこで、我は新たな戦術を考案しました。名付けて、『無料アプリ渡り鳥作戦』です」
「ほう?」
「人間界には、一週間だけ無料で使える食事管理アプリが多数存在する。一つのアプリの無料期間が終われば、また次へ。そうやって、常に『期間限定』という緊張感を保ち、我がモチベーションを維持し続けるのです」
健太は、そのあまりにも倹約家な戦術に、感心したような、呆れたような、複雑な表情を浮かべた。
「そして、戦の基本となるのは、やはり『姿勢』。頭の天辺から吊られている感覚で立ち、へその下をへこませる。歩く時も、これを意識する。靴底に仕込んだ100円均一の魔道具(中敷き)も、試行錯誤の末、ようやく馴染んできた…」
吹雪が、自身の編み出した緻密な健康戦略を熱く語っていると、部屋の隅で絵を描いていたアリアが、とてとてと歩み寄ってきた。
「ふぶきん、難しい顔してる。お腹すいたの?」
「アリアか。いや、これは、我が肉体との、生涯をかけた戦の計画なのだ」
「ふーん?」
アリアはよく分からない、という顔をしたが、すぐににっこり笑うと、持っていたカゴから真っ赤なリンゴを一つ取り出した。
「ふぶきん、はい、どうぞ。さっきお庭で採れたの。シャキシャキして美味しいよ」
その、差し出された一つのリンゴ。
吹雪は、ハッとした。糖質、タンパク質、基礎代謝、期間限定アプリ…。
自分は、あまりにも多くの情報を頭に詰め込み、難しく考えすぎていたのかもしれない。
健康になる、ということ。
それは、本来もっとシンプルで、楽しいものであるはずだ。
彼は、アリアからリンゴを受け取った。ひんやりとした重みが、心地よい。
「…そうだな。まずは、兵站の確保から始めるとしよう」
吹雪はそう言うと、リンゴを一口かじった。シャクリ、と軽快な音が部屋に響く。
甘酸っぱい果汁が、乾いた喉を潤していく。
壮大で複雑なダイエットという名の聖戦は、幼馴染がくれた、たった一つのリンゴを食べることから始まった。
その一歩は、あまりにも小さく、ささやかだったが、今の彼にとっては、何よりも確実で、力強い前進に感じられた。




