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魔王、インスタントコーヒーの経済学

魔王城の広大な浴室で、吹雪は一日の疲れを癒すための、神聖な儀式を執り行っていた。


まず、シャワーでじっくりと背中と腰を温め、血行を促す。

そのまま湯船に湯を溜め、固まりがちな関節をほぐすストレッチ。

そして、湯船に浸かりながら、丁寧に歯を磨く。

それは、彼の身体を労わる、静かで大切な時間だった。


風呂上がりの一杯のコーヒーを淹れた、まさにその時。

吹雪の脳内に、一つの衝撃的な事実が稲妻のように閃いた。


「…このインスタントコーヒー、もはや決して安くはないのでは?」


翌日。執務室に健太を呼び出した吹雪は、まるで国家の財政危機を報告するかのように、深刻な面持ちで語り始めた。


「健太先輩。由々しき事態です。我が愛飲しているインスタントコーヒーの価格が高騰し、とうとう一杯あたり18円〜20円の領域に達しました」


「ほう」

と、健太は静かに相槌を打つ。


吹雪は、羊皮紙に書き出した緻密な計算式を広げた。


「我が淹れる一杯は約180ml。これが20円と仮定すると、900ml…つまり5杯分で100円の計算になります。対して、人間界のスーパーで売られている900mlのペットボトルコーヒーは、最安値で106円。もはや、価格差はほとんどないのです」


吹雪の分析は、さらに続く。


「つまり、冷たいコーヒーを飲む場合に限れば、もはや城で自ら生成する必要はなく、スーパーで調達する方が合理的、ということになります。ホットで飲む場合は、水筒という名の魔道具で持ち運ぶしか節約の道はありませんが、あれは持ち運ぶのが実に面倒だ…」


このささやかな経済変動は、吹雪の休日の行動計画に、大きな影響を及ぼしていた。


「そうなると、我が城塞チョコザップへ遠征する際、自作のコーヒーは不要。ペットボトルを購入するか、魔道喫茶マクドナルドで補給するのが最適解となります。相対的に、城(仕事場)で自由にホットコーヒーが飲める環境の価値が、ますます高まってくる…」


健太は、そのあまりにも緻密で、壮大なロジスティクスの分析を、静かに聞いていた。やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「見事な計算だ、吹雪。お前は、コストと効率の観点から、完璧な答えを導き出した。だが、一つ問い忘れていることがある」


「と、申しますと?」

「お前は、どちらが飲みたいのだ?」


その一言に、吹雪はハッとした。

「…それは…。ペットボトルのコーヒーは、正直に言って、あまり美味しくない。やはり、我が愛飲する『ちょっと贅沢な珈琲店』の方が、香りもコクも、遥かに上です」

「だろうな」


コストか、満足度か。合理性と、ささやかな喜びか。

吹雪は、その永遠の問いの前で、再び思考の迷宮に迷い込んでしまった。


その時、執務室のドアがそっと開き、アリアがマグカップを両手で大事そうに抱えて入ってきた。


「ふぶきん、難しい顔してる。これ、どうぞ」


差し出されたカップからは、甘く、優しい香りが立ち上っている。


「これは…ココアか?」

「うん。わたしが作ったの。マシュマロも入れたんだよ」


アリアの淹れてくれたホットココア。

それは、吹雪の計算式のどこにも存在しない、非効率で、非合理的な飲み物だった。

だが、その温かさは、コストや効率では決して測れない、確かな価値を持っていた。


吹雪は、そのカップを受け取り、一口飲んだ。甘さが、疲れた頭にじんわりと染み渡る。

「…ありがとう、アリア」


彼は、目の前の幼馴染に、心からの笑みを向けた。

「珈琲よりも、ずっと美味しい」


一杯20円のインスタントコーヒーと、106円のペットボトルコーヒー。

その差額は、わずか数円。


だが、その数円の中にこそ、人生の豊かさという、何物にも代えがたい価値が隠されているのかもしれない。


魔王は、その日、経済学よりもずっと大切なことを学んだ気がした。

彼の日常は、そうやって、小さな発見と、ささやかな喜びと共に、ゆっくりと続いていく。

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