魔王、坐骨神経痛とスマホ戦略
朝、目が覚めた瞬間、吹雪は己の身体に起きた新たな厄災を悟った。
腰から足にかけて走る、今まで経験したことのない鋭い痛み。
坐骨神経痛、という名の呪いだった。
「…くっ」
昨日のデータ消費量は1GB以下に抑えられた。
新しい生活様式への移行は、数字の上では順調な滑り出しを見せたはずだった。
だが、身体は正直だ。
計画通りにはいかぬと、あざ笑うかのように悲鳴を上げている。
「健太先輩。我が新たな軍略について、ご報告があります」
痛みに耐えながら、吹雪は書斎で竜の健太に向き合った。
彼の前には、二つの魔法の石板が並べられている。
「まず、朝の行軍(通勤)において、主力となるのは石板A(今までのスマホ)です。これには楽天ギルドの専用アプリが入っており、朝の魔導列車(電車)内でのみ、最低限の魔力収集(ポイ活)を行う。これが主役なのは、そこまでです」
吹雪は、まるで大陸の覇権を語るかのように、その緻密な計画を語り始めた。
「徒歩での移動中は、石板B(新しいスマホ)に切り替える。これは叡智の探求(勉強)専用機。そして最も重要なのが『テザリングの儀式』。移動中は、石板Bが石板Aの魔力を吸い上げぬよう、供給路を完全に遮断するのです」
仕事が始まれば、石板Aは自動で魔力を集めるだけの装置と化す。
仕事が終われば、再び石板Bが主役となり、叡智の探求を再開する。
そして帰宅後、城のWi-Fiという名の聖域にて、初めてテザリングの供給路は再開されるのだ。
「しかし…」
と吹雪は顔をしかめる。
「計画にほころびも生じています。石板Bに魂を移してから、『ロコネ』とかいうアプリが、ことごとく反乱を起こす。蓄積していた100円分のポイントも消え去った。うまくいかないものですな」
健太は、そのあまりにも細かく、そして必死な計画を、静かに聞いていた。
「壮大な戦略だな、吹雪。魔力の流れをセンチ単位で制御しようというのか。だが、忘れるな。お前の身体もまた、お前の領地の一部だ。そちらの統治を疎かにしては、いかなる戦略も絵に描いた餅となるぞ」
健太の言葉が、痛む腰にずしりと響く。
「…分かっております」
吹雪は、意を決したように石板Aを手に取った。
「理屈はもう十分だ。慣れと改善だけでは、より良い道を見逃すかもしれん。今日から、この計画を実践に移します」
彼は設定画面を開くと、迷いなく「楽天SIM」の項目をOFFにした。これで、石板AはWi-Fi環境下でしか、その真価を発揮できなくなった。後戻りはできぬ。
その日の午後。計画通りに事を進めた吹雪は、驚くべき事実に気づいた。
「終わった…。あれほど一日がかりだった魔力収集が、14時には粗方片付いてしまった。二つの石板を同時に稼働させれば、これほど効率が上がるとは…」
それは、新たな生活様式がもたらした、最初の確かな成果だった。
「結局のところ、守るべきは一つの単純なルールだけでした」
吹雪は、どこか晴れやかな顔で言った。
「『テザリングの魔力は、ポイ活のために使ってはならぬ』。この大法則さえ守れば、我が生活にさほどの制限はない。むしろ、無駄な時間に追われることがなくなり、心に余裕が生まれる」
その時、部屋の隅で遊んでいたアリアが、痛そうにしている吹雪の背中に、小さなクッションをそっと差し入れた。
「ふぶきん、これ、どうぞ。ふわふわだよ」
その何気ない優しさに、吹雪はふっと笑みを漏らした。
そうだ。坐骨神経痛は痛む。
アプリは反乱を起こす。
Wi-Fiは、当てにならない時もある。
だが、一つずつ、試しながら微調整していけばいい。
複雑な計画の果てに見つけた、たった一つのシンプルなルール。
そして、そばにいてくれる、ささやかな温もり。
魔王は、自らが課した制約の中で、新たな自由を見つけようとしていた。
痛む腰をさすりながら、彼は石板Bを手に取り、新しい勉強を始める。
その横顔は、昨日の絶望に満ちた彼とは、少しだけ違って見えた。




