魔王、買って後悔か買わずに後悔か
少し早く魔王城に帰還できた、日曜の午後。
西に傾いた太陽の光が、玉座の間の床に長い影を落としていた。
主である魔王吹雪は、その玉座に深く身を預け、手にした一枚の羊皮紙――その実態は隣国の王が提示してきた通信契約の案内――を前に、もう何時間も思案に暮れていた。
彼の魂は、二つの天秤の上で激しく揺れ動いていた。
「大きなお金を手にしようと思えば、思い切りが大事だ…」
吹雪は、誰に言うでもなく独りごちる。その声は、重厚な静寂に吸い込まれて消えた。
契約を結び、3年間、月々一定の貢物(料金)を忠実に納めれば、膨大な数の「株」という名の魔石が手に入る。かの賢者ジェミニの神託によれば、その魔石は3年という短期間のうちに「上場」、つまり公にその価値が認められ、我が投資額の10倍にもなって返ってくる可能性があるというのだ。
「36万の投資で、355万か…」
その数字は、抗いがたいほどの魅力を放っていた。
兵士たちの武具は錆びつき始め、城壁の修復もままならない。そんな貧しい魔王軍の財政を考えれば、これは干天の慈雨にも等しい。将来の安寧を思えば、この千載一遇の好機に乗じるべきではないか。
しかし、その契約には魂を縛るかのような厳しい制約があった。
月々の支払いは、今の3倍近くに跳ね上がる。
そして何より、今まで無限の泉のように使えていた魔力(データ通信量)に、厳格な上限が課せられてしまうのだ。
「そうなれば、移動中のささやかな魔力収集(ポイ活)は、ほぼできなくなる…」
彼にとってポイ活は、単なる小遣い稼ぎではなかった。
退屈な移動時間を輝かせる小さな儀式であり、領地の隅々まで支配きを感じるための統治活動の一環だった。そのささやかで完璧な日常が、失われてしまう。
テザリングという、他者へ魔力を分け与える王の慈悲の術も、気軽には使えなくなるだろう。
吹雪は玉座から立ち上がると、黒板代わりにしていた大きな姿見の前に立ち、魔法のチョークで損失と利益の計算を始めた。
傍らで竜の健太が、本を読んでいた目を細め、静かにその様子を見守っている。
「半年で契約を破棄した場合、損失は約5万。だが、得られる魔石の価値は、かの神託通りなら50万を超えるかもしれん…。3年続けた場合、損失は28万。だが、利益は最大で300万を優に超える可能性も…」
数字を並べ、論理で組み上げれば組み上げるほど、答えは一つしか見えなかった。
「やるべきだ」。
損失は、株で損をしたと考えれば、許容範囲の小遣いだ。
何もしないことこそ、未来のあらゆる可能性を消し去る、最大の損失なのだ、と。
「だが、心が追いついてこない…」
吹雪は頭を抱えた。
理性が「進め」と命じているのに、魂が頑なにそれを拒む。
彼は契約で得られる二つ目の魔道具の使い道を必死で考えた。
「そうだ、一つは魔王の公務用、もう一つは叡智を探求する私用とすればいい。ライブ配信で我が威光を示し、副業で軍資金を稼ぐことも…」
しかし、その言葉はすぐに虚しく響いた。
「誰に嘘をついているのだ、我は…。面倒くさがりの我が、そんな器用な真似をするはずがない。結局、今の魔道具と同じように、物語を作るだけのものになるに決まっている」
問題は、道具の使い道ではない。
自らの行動に「制限」がかかることへの、根源的な嫌悪感だった。
「健太先輩、我はどうすればよいのでしょう。すべてを賭して進むべきか、何一つ失わぬよう、ここに留まるべきか」
買って後悔するか、買わずに後悔するか。究極の二択に、思考は完全に停止してしまった。
その時、部屋の隅で二つの違う色のおもちゃで遊んでいたアリアが、困ったような声を上げた。
「うーん、どっちも使いたい…。えーい、半分こ!」
彼女は二つのおもちゃを無理やりくっつけようとして、カシャンと音を立てて床に落としてしまった。
その脈絡のない言葉と行動が、吹雪の凝り固まった思考に、小さな風穴を開けた。
「…半分こ、か」
「吹雪」
と、それまで沈黙を守っていた健太が、静かに口を開いた。
「羊皮紙の上の数字は、お前に『進め』と示している。だが、お前の心は『留まれ』と叫んでいる。なぜだと思う」
「それは…今の生活の快適さを、失いたくないからでしょう」
「そうだ。ならば、答えは一つではないはずだ。白か黒か、0か100かで決めずとも、道はある」
健太の言葉に導かれるように、吹死の目に光が戻った。
そうだ。なぜ、今すぐ決めねばならないと思っていたのだ。
「健太先輩…道が見えたかもしれん」
「ほう」
「契約を結ぶ前に、まず『契約を結んだ後の生活』を、今の環境で試してみればいいのです。数ヶ月、我が国の魔力供給網(楽天モバイル)の通信を、契約後の上限に合わせて、自ら制限してみる。それで我が生活に、我が魂に、耐えられるかどうか、試してみようと思います」
机上の空論で悩み続けるより、最小限のリスクで、現実のデータを取る。
それこそが、今の自分にできる、最も賢明な一歩だった。
「そして、もし耐えられぬと判断すれば、この契約は潔く見送る。耐えられると分かれば、その時はもう、我は迷わない。買って後悔、買わずに後悔、そのどちらでもない、第三の道だ」
健太は、満足そうに深く頷いた。
「ようやく、数字の呪縛から逃れたようだな。試すことだ、吹雪。それこそが、お前の心を真に納得させる唯一の方法だろう」
何もしないことが一番の損失だと焦っていた心が、嘘のように凪いでいく。
未来への大きな賭けと、目の前のささやかな幸せのバランスを取りながら、また一歩、賢い王へと近づいていく。
アリアが「ふぶきん、これあげる」
と、先ほど落としたおもちゃの一つを差し出した。
吹雪はそれを受け取り、固く握りしめた。
今の生活の価値も、未来の可能性も、どちらも大事なのだ。
彼は、その両方を手に入れるための、賢明な戦いを始めようとしていた。




