魔王は時間と健康の支配者を目指す
その日の朝、魔王城には珍しく澱んだ空気が流れていた。
窓の外で降りしきる雨のせいではない。
玉座に座る俺、魔王吹雪が、己の不甲斐なさに対して盛大にため息をついていたからだ。
「時間を…無駄にしてしまった…」
朝のウォーキング、すなわち我が領地のパトロール兼ポイ活の時間を、少しゆっくりしていたせいで逃してしまったのだ。たかが45分。されど45分。
その時間は、俺の心身の健康、そしてささやかな稼ぎを支える、まさに黄金の時間だった。
「時間の使い方が下手なだけだろう。雨を言い訳にするな」
隣で静かに古文書を読んでいたドラゴンの先輩、健太さんが、顔も上げずに指摘する。
その言葉が、俺の心の奥底にある後悔の念に火をつけた。
「その通りだ、健太!『仕事が忙しい』『やる事が多い』『公序良俗に従っている』…!そんなやらない理由を並べ立てたところで、我が肉体が強健になるわけではない。時間は有限、命も有限。できることは、今、この瞬間から始めねばならんのだ!」
俺は玉座からおもむろに立ち上がり、大演説を始めた。
「聞け、我が心の兵士たちよ。健康に長生きするためには、食事と運動が最も重要だ。食事は未だ科学の光が届かぬ神秘の領域。栄養素だけでは足らず、サプリも活用しつつ、森羅万象の恵みを摂取する必要がある。だが、運動はもっと重要だ」
俺は拳を握りしめる。
「我らの寿命は飛躍的に伸びているというのに、それに対する知識と経験が全く足りていない。老いたる賢者たちの声も、我ら若輩に届いていないのだ。肉体は風化した肉の如く、年を重ねれば誰でも固くなる。固くなれば、些細なことで傷つき、歪む。一度歪めば、元には戻らぬ!固くなった肉は、もう二度と、瑞々しいあの頃の柔らかさを取り戻せはしないのだから」
健太さんが、やれやれと首を振るのが見えた。
だが俺の演説は止まらない。
「特に70歳の壁は大きい。普通の生活では鍛えられぬ、体の内部の筋肉が一気に衰えるのだ。若き日に激しく動く中で知らず知らずのうちに鍛えられたその筋肉が、動きが鈍くなるにつれて失われていく」
吹雪の演説は続く。
「そしてそのツケが、70歳前後で雪崩のように押し寄せるのだ。だからこそ、若いうちから走り、鍛え、『痛めない体』を手にしておかなければ、年を重ねてからではもう遅いのだ。年を取ってから痛めた部分は、もう二度と治らん!死ぬまでずっと、その痛みと共に生きるのだ!」
俺がそこまで熱弁した時、ふと、足元で何かが動いた。
幼馴染のアリアが、床の大理石の模様の上だけを選んで、ぴょんぴょんと跳ねて遊んでいる。
「アリア、何をしている?」
「えへへ、武井壮ごっこ!白い線の上だけ歩くの、楽しいよ!ふぶきんもやる?」
その無邪気な一言に、俺は天啓を得た。
「そうだ…それだ、アリア!それこそが、日常に潜む究極の鍛錬法なのだ。白い線だけを踏む、葉っぱに軽く触れる、指先で狙いを定める。その遊びのような動きこそが、判断力と瞬発力を養い、一生を左右する大怪我をするかしないかの運命を分かつ!」
俺がアリアの遊びを絶賛していると、健太さんが静かに口を挟んだ。
「貴様はすぐ極端に走るからな。だが、諦めないという心構えは重要だ。特に、一度病という呪いにかかった時にな」
健太さんは古文書の一節を指でなぞりながら、厳かに語り始めた。
「例えば『高血圧』という、ありふれた呪いを放置すればどうなるか。古の医学書にはこう記されている」
健太は語り始めた。
「脳の血管が破裂、あるいは詰まり、突然の激しい頭痛、麻痺、言語障害を引き起こす。心臓は肥大し、動悸や息切れに苦しみ、やがて機能不全に陥る。腎臓は硬化し、毒素を排出できなくなり、人工透析という機械に繋がれて生きることになる。大動脈は瘤のように膨れ上がり、いつ破裂するとも知れぬ恐怖に苛まれる。そして、眼は光を失い、闇に閉ざされる…」
健太さんの淡々とした解説に、俺とアリアは息を呑んだ。
ただの一つの不調が、これほどまでに恐ろしい末路を連鎖させるというのか。
「だからこそ…」
俺は決意を新たにした。
「投げやりになってはいかんのだ。他人と比べず、自分の体の声を聞き、最悪の未来を回避するために、今できる事を行動する。生きる中心を『健康』に置き、人生を再構築するのだ」
俺は再び玉座に座り、早速、腕を大きく回すストレッチを始めた。
執務の合間でも、これくらいはできる。
帰城後、休みモードで指一本動かすのが面倒くさくなる前に、行動できるこの「やる気のある瞬間」を逃してはならない。
「我はなるぞ、健太、アリア。時間と健康を司る究極の存在…『時間オタク』にして『健康オタク』に。この世のどんな富豪も、金では買えぬ、究極の財産を手に入れるのだ」
俺の宣言を聞き、アリアも「わたしもやるー!」と楽しそうに俺の真似をして腕を回し始めた。
健太さんはそんな俺たちを横目に、ふっと笑みをこぼした。
「…まあ、口先だけでなく行動に移すなら、少しは見込みがあるか」
その言葉が、何よりの激励に聞こえた。
そうだ。我が魔王としての真の治世は、今、この瞬間から始まるのだ。




