魔王の睡眠時間と執筆計画
「よし、今日は歩いて帰るぞ」
仕事という名の人間界の偵察任務を終え、魔王城への帰路につく夕暮れ時。
俺、魔王吹雪は高らかに宣言した。
心地よい疲労感に包まれた今、このまま徒歩で黄昏の街を抜け、創作の聖地『京橋』のフリースペースに向かうのが、最近の俺の密かな楽しみなのだ。
「またか、吹雪。貴様のベストな睡眠時間は7時間から8時間。それを忘れたわけではあるまい」
隣を歩く先輩、健太さんが呆れたようにため息をついた。
彼は悠久の時を生きるドラゴンで、俺の教育係のような存在だ。
常に冷静で、現実的な視点から物事を判断する。
「分かっているさ、健太。しかし、このウォーキングが重要なのだ。机に向かい続けた体をリセットし、精神を研ぎ澄ます。そうして初めて、新たな物語が生まれるのだから」
「その結果、寝不足になって翌日の執務に支障をきたすなら本末転倒だろう。電車を使えば合計25分で着く。歩けば1時間以上。その差は大きいぞ」
健太の言うことは正しい。
昨夜もそうだ。
『京橋』のフリースペースでネタを放出し、素晴らしい出来の小説を書き上げた。
それを自作の朗読アプリで聴き直す時間は、まさに至福だった。
自分の創造物が音になるというのは、新たな発見もあって実に面白い。
今後、我が王国では執筆と朗読の二本立てで文化を築いていこうと決意したほどだ。
しかし、気づけば時計は21時を過ぎていた。
城への帰還に40分。食事を終えれば23時。
朝は5時に起きねばならない。
睡眠時間は、わずか6時間。
かつて4時間睡眠で玉座に座り続け、数々の政策を失敗した黒歴史が頭をよぎる。
あの頃の俺は、明らかに判断力が鈍っていた。
そう、この俺にとって睡眠不足は統治の失敗に直結するのだ。
「うぅ…しかし、歩きたいのだ。この高ぶる気持ちを創作にぶつけたい」
「ならば休日前か、一人の日にしろ。平日の、しかも繁忙期にやることではない。貴様は今、やる気に満ち溢れているだけだ。その情熱は長続きしない」
「ぐっ…」
健太の指摘はいつも的確で、反論の言葉が見つからない。
電車で帰れば、机に向かっていた疲れが抜けず、どうにも創作意欲が湧かないのだ。
本当は毎日でも歩きたい。
今は小説を書くことを中心に、この人生という名の時間を使いたいとさえ思っている。
だが、悲しいかな、俺は長時間集中して書くことができない。
休日、時間は有り余るほどあるのに、平日に生み出す量と大して変わらないのだ。
「仕事という緊張感があるからこそ、逆に書けるのだろうな」
「その通りだ。休日はどうしても弛緩する。朝から買い出しだ、料理だと動き回れば、そこで一度緊張の糸が切れてしまう」
「そうなのだ!自分で作った昼食を食べたくなってしまうし、食べたら最後、動けなくなる…」
俺たちがそんな議論を交わしていると、ふわりと花の香りがして、幼馴染のアリアがひょっこり姿を現した。
「ふぶきーん、けんたせんぱーい!おつかれさまー!」
「おお、アリアか」
「ちょうど良かった。これ、お弁当作ってきたの。あと、魔法瓶にコーヒーも淹れてきたよ」
そう言ってアリアは、可愛らしい包みと大きな水筒をにこにこと差し出した。
「なんと!気が利くな、アリア」
「これなら、お城に帰る前に『京橋』の公園で食べられるね。そうすれば、お腹が空いてない状態になるから、コーヒー1杯でゆっくりできるよ」
「…なるほど」
俺は目から鱗が落ちる思いだった。
休日は、自炊した昼食を食べるために一度城に戻るからリズムが崩れるのだ。
だが、弁当にして外で食べればいい。
そうすれば、食後の眠気に襲われる前に活動を再開できる。
「それに、アリアがコーヒーを持ってきてくれれば、カフェのクーポンがどうとか、飲み過ぎがどうとか、小さなことで悩まなくて済むな」
健太が感心したように言う。
そうなのだ。
俺は最近、市内に11箇所あるカフェ『マクド』をローテーションで巡っている。
その理由は同じ店を使い続けるとアンケートクーポンが手に入らなくなるという、魔王にあるまじきセコい悩みを抱えていた。
場所を変えるのは気分転換に良いが、その度にコーヒーを頼めば飲み過ぎにもなる。
アリアは、俺と健太が頭を抱えていた問題を、いともたやすく飛び越えてみせた。
「平日は健太先輩の言う通り、電車で帰って早く寝るのがいいよ。そして休日は、朝イチで私のコーヒーを持ってカフェに行って、お昼になったら公園で私のお弁当を食べるの。そうすれば、リフレッシュもできて、いっぱい書けるんじゃないかな?」
屈託のないアリアの笑顔に、俺の中のこだわりがすっと消えていくのを感じた。
そうだ。徒歩がいいとか、電車はダメだとか、そんな風に凝り固まる必要はないのだ。
平日は体力を温存し、休日にその分、工夫して時間を作る。
大切なのは、日常の中にどうやって創作を組み込んでいくか。
そして、一人で全てを解決しようとせず、時には仲間の力を借りること。
「…そうだな。アリアの言う通りだ。平日は健太の計画でいこう。そして休日は、アリアの計画で、書く量を増やす段取りを作っていくとしよう」
俺の言葉に、健太は静かに頷き、アリアは「やったー!」と嬉しそうに笑った。
情熱と現実。
緊張と弛緩。
そのバランスを取りながら、俺の日常という名の物語は続いていく。
玉座で世界を治めるのも悪くないが、信頼できる仲間たちと共に、こうしてささやかな日常を積み重ねていくのも、存外良いものだと、魔王は思うのだった。




