魔王、新たなる段階へ
「うぐっ……!」
荘厳であるはずの魔王城の玉座から、威厳のかけらもない呻き声が漏れた。
吹雪は玉座で尊大なポーズを決めようとした瞬間、足の土踏まずを貫いた鋭い痛みに、思わず顔をしかめて固まる。
ほんの少し城の大理石の廊下を歩いただけなのに、この有様だ。
冥界の番犬ケルベロスに噛まれた古傷ですら、これほどしつこく痛んだことはない。
「どうした、吹雪。まさかもう老いたか。数千年生きたくらいで音を上げるでない」
傍らで古竜の鱗で装丁された分厚い書物を読んでいた健太が、顔も上げずに淡々と言った。
「ち、違う! 断じて違うとも! 我が魔力は未だ衰えを知らん! ……だが、認めよう。最近少し体力が落ちてきたようだ。この肉体も数千年酷使してきたからな……」
「当たり前だ」と健太は言う。
「わしとて、千年ごとに鱗を一枚一枚磨き直し、関節には魔法の油を注いでいる。これからあと数千年は付き合う身体だぞ。しっかりケアせねば、いざという時にその強大な魔力を振るうための『器』が壊れてしまう。お前の身体に代わりはないのだからな。身体に投資しろ」
健太の言葉は、いつもながら揺るぎない正論だ。
「金を使いたくない」
という魔王らしからぬケチな心が、ぐらりと揺らぐ。
プライドが邪魔をして素直に頼めずにいたが、もう限界だった。
吹雪は観念し、魔王城一(というか唯一)の身体メンテナンスの専門家である健太に、後でしっかり診てもらうための予約を入れたのだった。
身体の不調は、精神にも暗い影を落としていた。
吹雪は再び玉座に深く沈み込むと、今度はもっと深刻な声で、魂が抜けたような溜息をついた。
「実はな、健太先輩……。最近『魔王ブログ』が書けんのだ……」
「ほう。ネタ不足か」
「なぜ分かった!? まるで心を読む魔法だな!」
吹雪は堰を切ったように語り始めた。
元々、あのブログは人に見せるためのものではなく、日々の鬱憤や、世界征服のアイデア、玉座で一人考えていることなどを整理するための、衝動的な「書き殴り」のノートだった。
物語への強い憧れはあったが、いざ羽ペンを持つと鉛のように重く感じられた自分が、唯一続けられる表現方法だったのだ。
ところが最近、健太が開発した古代魔法の力で、その「書き殴り」のブログから、まるで吟遊詩人が語るような格好いい小説が書けることが分かってしまった。
思わぬ形で夢が叶い、吹雪は喜んで小説化に夢中になった。
「しかし、それが大きな弊害を生んだ。 昔のブログは『昼寝に失敗した理由』とか、くだらなすぎて小説にできんと思い、最近の出来事を小説化するようにしたんだ」
吹雪は続けた。
「すると今度は、ブログを書く段階で『この出来事は小説になるか?』と、ネタを考えるようになってしまったのだ。 昨日食べたパフェを、どうすれば魔王の威厳ある食事シーンにできるか、一晩悩んでしまったほどだ」
「本来の目的が、見えなくなったわけか」
「そうだ。 書き殴りの衝動が消え、脳が小説という『次なる段階』に引っ張られて、何も書けなくなってしまった。偉大な魔王を演じようとした途端、我が言葉は魂を失ったのだ!」
吹雪が頭を抱えていると、床で木の実を並べて遊んでいたアリアが、楽しそうに一枚の紙をひらひらさせながら寄ってきた。
「吹雪くん、見て! 今日の私の日記!」
そこには、にこにこ笑う太陽や、風に揺れる花の絵と、「たのしかった」「きらきら」「ふわふわ」といった、いくつかの単語だけが、それこそ衝動のままにクレヨンで書き殴られていた。
アリアにとって、日記は「どう見せるか」ではなく、ただ「楽しかった」という心の動きを、そのまま写し取ったものなのだ。
その一点の曇りもない純粋な表現を見て、吹雪は雷に打たれたような衝撃を受けた。
そうだ。俺の原点もこれだったはずだ。
誰かの評価のためじゃない。
自分のための、衝動的な書き殴り。
小説にしたい、格好よく見せたいという欲が、その一番大事な、荒削りだが熱い魂の核を曇らせていたのだ。
「…しかし、今さら小説のレベルは落としたくない。この書き殴りのようなブログのままで、人の心を打つ物語にするには、一体どうすれば…」
「簡単なことだ」
と、健太が静かに書物を閉じた。
「お前の日記は、磨かれていない原石だ。その荒削りな形、内包する不純物こそが、お前という存在の証明であり、価値なのだ」
健太は真剣な眼差しで語る。
「小説にするというのは、その原石をどうカットし、どういう光を当てて見せるかという『工夫』の話だ。原石の輝きは、書き手の魂そのもの。工夫とは、その輝きを最も美しく見せるための愛情だ。お前は新たなる段階に来たのだ、吹雪」
「新たなる…段階…」
その言葉が、吹雪の頭の中の霧を晴らしていく。
そうだ。ブログは今まで通り、自分の魂の書き殴りに戻そう。
そして、そこから物語を紡ぎ出す「工夫」にこそ、創造の本当の楽しみがあるのかもしれない。
それは、体力が落ちた身体をメンテナンスし、新たな付き合い方を探るのと同じことだ。
視界が開けた吹雪は、明日の計画を頭の中で晴れやかな気持ちで再構築する。
朝一で京橋へ行き、衝動のままにブログを書く。
そして午後は、身体のメンテナンスという重要な儀式と、書き殴りの原石をどう磨くかという、愛すべき「工夫」の時間に充てよう。
「ふふ、ふぶきん、なんだか顔がすっきりした?」
アリアが不思議そうに吹雪の顔を覗き込む。
「ああ。少しな」
吹雪は力なく笑いながらも、その心は確かな手応えを感じていた。
身体も、創作も、人生も、メンテナンスと工夫を繰り返しながら、進んでいく。
魔王の悩み多き日常は、まだまだ新たな段階へと続いていくのだった。




