魔王、七十歳での起業を計画する
昨日は友人との謁見の日だった。
居酒屋の少し油の混じった喧騒の中、俺たちは互いの近況を報告し合った。
友は酒に弱い体質で、ジョッキ一杯のビールをゆっくりと味わっている。
俺は魔獣で来ていたため、ノンアルコールの霊薬を呷りながら、彼の話に耳を傾けた。
最近、職場の話好きなアルバイトに鍛えられたおかげで、人との対話というものに、かつてのような気後れがなくなった。
一時間ほど語らっただろうか。
話は尽きず、場所をマクドナルドという名の別の聖域に移して、コーヒーの香りに包まれながらさらに一時間。実に有意義な二時間だった。
人間との謁見も、我が日常に「メリハリ」という名の、心地よい刺激を与えてくれるものよ。
「やはり、人と会うのは大事だな」
翌日、いつものフリースペースの席で俺がそう呟くと、向かいで分厚い専門書を読んでいたドラゴンの健太が、静かに顔を上げた。
「そうだな。お前も、だいぶ人間らしくなってきたじゃないか」
「ふん、魔王たる我の器が、この世界の流儀に適応し始めたということだ」
昨日の日曜、この場所は学生たちの楽しげな声で満ち、席を探してさまよう人々でごった返していた。
やはり、我のように思索に耽る者にとっては、平日の静寂こそが望ましい。
友人との会話で触発されたのか、俺は自らの人生における幸福について、壮大な思索を巡らせていた。
「なあ健太、アリア。我は気づいたのだ。世界の支配や莫大な富など、結局は虚しいものだと。我が真に望むものは、もっとささやかで、しかし確固たるものなのだ」
俺は芝居がかった仕草で指を折りながら、自らが突き止めた幸福の三要素を語り始めた。
「一つ! 安定した生活基盤! 二つ! 健やかなる肉体! そして三つ! 誰にも侵されぬプライベートな時間の確保! この『三種の神器』こそ、我が求める至高の宝なのだ!」
「ふぶきん、神器っていうから剣とか盾かと思った!」
とお絵描きをしていたアリアが顔を上げる。
「アリアの神器はねー、いちごのショートケーキと、ふわふわのお布団と、健太先輩だよ!」
「おい、俺を物みたいに数えるな」
と健太がツッコミを入れる。
「その神器を手に入れるため、我は今の職場を選んだのだ」
俺は続ける。
「古のアーティファクト鑑定所(ブランド買取専門店)は、心身の疲労が少ない。我のように、水面下で壮大な夢(魔導書執筆)を追い求める者にとっては、最高の修練場と言えよう」
健太は冷静に指摘する。
「それはお前が下っ端だからだろ。上に立てばどんな仕事も大変だぞ」
「む、無論だ! だが、それもまた覇道の一歩よ! すべては来るべき日のための布石に過ぎん!」
俺は声を潜め、我が壮大なる計画を打ち明けた。
「最終目標は雇われる側ではない! 雇う側、すなわち魔王軍の総帥となることだ!」
健太はため息をついた。
「気が長い話だな。お前にとってはそれくらいのスパンで考えるのが丁度いいのかもしれんが」
「そうだ! 経営という名の戦は危険が伴う。ゆえに、年金という名の最低保証がそこそこ得られる七十歳になった時点で、満を持して旗揚げする。 七十年の雌伏期間を経てな。 だからこそ、健康が第一なのだ。 魔王たるもの、病で倒れるなど、最大の恥辱だからな!」
「わー! ふぶきん、70歳になったらお店屋さんするの?」
アリアが目を輝かせた。
「お店の名前は『きらきら魔王屋さん』がいいな。 虹色の宝石をいっぱい並べて、お客さんには綿菓子をあげるの!」
「うむ、悪くない響きだ…。その経営方針、採用しよう」
しかし、俺のテンションは、夢と現実の狭間で揺れ動き始める。
「まあ、それまでに我が魔導書(小説)が日の目を見ることは期待しておらん。我が紡ぐ物語など、この世界の無数の言葉の中に埋もれて消える、ただの塵芥やもしれぬ…。夢追い人とは、最低限の生活ができれば御の字なのだ」
そこで、俺の言葉は急に弱々しくなった。
「…だが、その生活すら危ういのが現実だ! 我が手にする給料という名の戦利品はあまりに少なく、節約術を駆使してもギリギリ。そこへ、家電の故障や城の修繕といった名の奇襲攻撃が加わってしまえば、我が軍資金は一瞬で…」
俺は天を仰いだ。
「そして何より、五年に一度、我が城を襲う炎のドラゴンの貢ぎ物(火災保険。 あれはまるで、有無を言わさず財産を奪っていく悪竜そのものだ! これでは生活ができるレベルではないではないか!」
壮大な計画を語っていた魔王の、あまりに現実的な嘆き。
健太は静かに、しかし諭すように言った。
「それが現実というものだ。夢を追うなら、その現実とも向き合わねばならん。家の修繕費と言っても、屋根か壁か、水回りかで金額は大きく変わる。夢と理想だけでは城は維持できんのだ」
「ぐぬぬ……」
正論という名の聖剣を前に、俺はぐうの音も出ない。
意気消沈する俺を見て、アリアがポケットをごそごそと漁り始めた。
「大丈夫だよ、ふぶきん! お金がなくなったら、アリアが公園で拾ったこのキラキラの石ころをあげる!」
彼女が差し出した手のひらには、白や灰色に混じって、少しだけ光を反射する石が数個乗っていた。
「これを売れば、きっとお金になるよ!」
そのあまりにも純粋な解決策に、俺は少しだけ毒気を抜かれた。
差し出された石ころの一つを、そっとつまみ上げる。
「う、うむ……。磨けば光るやもしれぬな…。感謝する、アリアよ」
壮大な夢と、あまりにも厳しい現実。
その狭間で揺れ動く、なんとも人間くさい魔王の一日は、こうして過ぎていくのだった。




