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9 愛する人へ贈る石     白い刃

 部屋に戻って辞書を眺めていると、ふと廊下で人の気配がした。ここではシャワーとか水を使っているとき以外は静かで、夜遅くなると、ささやかな物音にも敏感になる。

 部屋の明かりを暗くして、そっとドアノブを回し、少しだけドアを引いて周りを見る。さっきの気配はもうない。そのまま静かに廊下に出ると、まったく同じタイミングで、3号室から千鶴さんが出てきた。

 お互い声を出せないまま、小さく笑ってしまう。千鶴さんもまだ着替える前で、昼間と同じ紺色のワンピースを着ていた。初めて見たときは学校の制服だし、きのうも白い襟に紺色の服だった。そういえばこの人、紺色の服しかないんだろうか。

 音を立てずにドアを閉めて、ベージュの絨毯が引いてある廊下をゆっくり歩く。廊下のオレンジ色の照明はほどよく暗い。忍者ごっこでもするように、二人で階段へ近付いた。

 千鶴さんが出てきた時点で解っていたことだけど、ホールにいたのは有賀と百合子さんだった。もう朝まで用のないホールは、ほどよく照明を落としてある。

 百合子さんは右手に何かを持っていた。黒い小箱と、短くて白っぽい棒みたいなもの。千鶴さんがぼくの耳元で囁いた。

「こんな夜は気をつけて欲しいんですけど」

 百合子さんはふんわりとした白っぽいニットに、臙脂色のスカートという格好だった。この人はこの人で、こういう雰囲気の服が多い。女らしくて、か弱い雰囲気の百合子さんらしい。しかし今は、顔を上げて有賀を責めるように問いかけていた。

「有賀さん、あなたはわたくしに、嘘をついていませんか」

 やっぱり、という顔で千鶴さんを見る。こうなるとは思ってた。しかたないですね、と言うように千鶴さんも肩をすくめる。まったく顔色を変えずに黙っている有賀に、百合子さんは震える声で続けた。

「赤い石というのは、どなたに差し上げたんですか」

「終わった話ですよ。もう僕の手元にはありません」

 え? と思わず小さく声が出た。きのうの夜、有賀が渡していた黒い小箱。中身は見えなかったけど、どうやら百合子さんに渡した宝石は赤くないらしい。

「葉山さんのお話では、そう思えませんでした。あなたの愛する人は、別にいるんですね」

「そんな人は、どこにもいませんよ」

「では、赤い石というのは、どうされたのですか。……あなたの愛する人が持っているのでしょう?」

 百合子さんの真剣な問いかけに、有賀は遠い目をして黙る。少し考えたあと、目を伏せて答えた。

「いいえ。受け取ってもらえませんでした」

「……あなたは、わたくしだけを見てくださっていたわけではなく、ほかに、愛する人が心にいるのに、わたくしにあのようなことをしたのですか」

 うわあ。どのようなことをしたんだっけ。思い出すとドキドキが止まらない。

 有賀は慌てる様子もなく黙っている。この状況なら子供でも『今はあなただけです』くらいのセリフは思いつくのに。

 百合子さんは泣きそうな目をしながらも、有賀を睨んだ。

「今、ここで答えてください。どういうことですか」

 思わず息を飲む。千鶴さんも息を止めて有賀を見ている。盛り上がってまいりました、とか思ってる場合じゃない。大人としては、どう答えるのが正しいんだろう。どうする、歩く18禁。

「……申し訳ありませんでした。でも、大したことはしていませんよ」

 認めた。そして開き直った。

「そんな……」

 百合子さんが絶句する。そうか、あれはまだ大したことではないのか。やっぱり有賀はろくでもないな。

 顔色をなくした百合子さんは、持っていた黒い小箱を有賀の目の前に突き出す。

「こちらはお返しします」

「別に、プレゼントしたものですから、返さなくても構いませんよ」

 どうでもよさそうに有賀が黒い小箱を受け取ると、百合子さんは左手で、右手にあった白い棒のようなものをすっと引っ張った。なにあれ? そう思った瞬間、その先が銀色にきらめいたように見えた。次の瞬間、千鶴さんがすごい速さで駆け出した。

「ちょっ、」

 ぼくが呼び止める間もなく、千鶴さんは風を切る鳥みたいにすっと階段を駆け降りる。下まであと七段のところでひらりと手すりを超え、有賀と百合子さんのあいだに飛び降り、着地と同時に百合子さんの手首を払った。その手から銀色の何かが落ちる。

 千鶴さんはそのまま百合子さんの腕を掴み、冷たい目で凝視しながら言った。

「何をするつもりですか」

 百合子さんはすごくびっくりしたみたいで、目を見開いたまま口をぱくぱくさせていた。いきなり上から千鶴さんが降ってきたんだからしかたない。有賀もさすがに固まっている。

「……ずっといたんですか」

「すみません。危険な事態だと判断したものですから」

 そう言って千鶴さんは周辺を見回すと、問題ないと判断したのか百合子さんから手を放した。百合子さんが震えながら有賀に尋ねる。

「まさか、愛する人というのは、このかたですか」

まさか、とは失礼だろうと思うけれど、無理もない。違いますよ、と千鶴さんも小さく笑った。有賀は眺めていた黒い小箱をぱたんと閉じて言った。

「僕に愛する人がいようがいまいが、僕はあなたの王子様ではありません」

「どっちかというと魔法使いですからね、悪いほうの」

 階段をゆっくり下りながら、ぼくも口を挟んだ。百合子さんと有賀が驚いた顔でぼくを見る。百合子さんはものすごく焦ったように、両手で顔をおさえた。

「それより、これは?」

 百合子さんの手から落ちたものを拾い上げる。銀色に光ったからナイフかと思ったけど、ナイフというよりも、時代劇で見るような短刀だった。白く見えたのは柄と鞘に使われている木の色で、よく見ると柄のところに和風の文様がある。見覚えのある形だった。

「あれ、これって」

 思わず顔を上げると、百合子さんは困ったように目を逸らす。どうして百合子さんが、これを持ってるんだろう。

「……あの、これはその」

「大丈夫です。この人を刺したい気持ちはよく解りますから、そんなのは大したことじゃないです。でもこれって、曽我の家紋ですよね。葬儀でぼくもはじめて知ったんですけど、結城さんも同じなんですか?」

 そう言いながら百合子さんを見た。短刀に入ってるのは、葉っぱの上のカボチャが三つ、向かいあっているような家紋。『三つ橘』って巴さんから聞いた覚えがある。百合子さんが言い難そうに口を開いた。

「それは……あの夜に、私の部屋に残されていたものなんです」

「あの夜って、百合子さんがあの、」

 有賀の部屋にいて、と言いかけて黙る。黒い蝶がいたときですね、と千鶴さんが冷静に続けた。ぼくの手元を有賀が覗き込む。

「僕にも見せてください」

 有賀に短刀を渡すと、『三つ橘』ですね、と紋を見ながら刃先に爪を当てる。

「ぼくはよく知らないんですけど、家紋って、苗字で決まってるんですよね? 曽我とか結城とか」

「いえ、この苗字にはこの家紋が多い、という傾向はありますが、必ずしも決まっているわけではありません。昔から婚姻以外でも、自由に家紋のやり取りがあったそうですから。結城といえば、有名なのは三つ巴や下り藤です」

 思い出すように上を見ながら有賀が言った。なるほど、と理解して百合子さんに尋ねる。

「それで、百合子さんのところも三つ橘なんですか」

「それが、うちは『揚羽蝶』なんです」

 少しだけ怯えたように百合子さんが言った。千鶴さんと有賀が顔を見合わせる。ぼくも納得して肯いた。

「じゃあ、緋呂子さんが騒いでたのってまさか」

「はい。祖母が取り乱していたのは、それも関係していると思います。あのときはその、わたくしはあの部屋にはすぐ戻らなくて」

「知ってます。6号室にいたのは」

 さらりと言った千鶴さんに、百合子さんは泣きそうな顔をした。有賀も一瞬目を見開く。そんなことはどうでもいいというように、千鶴さんは二人を見ながら話を続けた。

「騒ぎになりかけていたので、百合子さんが6号室から出られるよう、巴さんや詩さんを連れて、私も緋呂子さんの部屋に入らせてもらったんです。そのときは、テーブルの上に蝶の死骸しかありませんでした」

「まだ生きてましたよ、なんとか」

 あのときの蝶を思い出して口を挟む。でも短刀はなかったと思う。百合子さんは辛そうにみんなを見ながら口を開いた。

「その蝶とともに、短刀がわたくしの服に突き立てられていたそうです」

「……それで緋呂子さんは、あなたの身を案じたんですね」

 淡々と言う有賀を、百合子さんが恨めしげに睨む。あれっ、と少し遅れてぼくが言った。

「じゃあ、本当に誰かが侵入してたってことですよね。窓は開いてたんですか」 

「はい、鍵は開いていました。テーブルには花瓶と、わたくしの本が置いてありました。その上にわたくしの服と黒い蝶、そして短刀が突き立てられていたそうです。それを見て、祖母はわたくしに恐ろしいことが起きたのではと考えたのです」

「ぼくたちが見たときには、そんなものなかったですよ」

「その、……皆さんが部屋を確認しようとしたので、祖母は短刀とわたくしの服を隠したそうです。不名誉なことに繋がると思ったのかもしれません」

「どういう不名誉?」

「……たとえば、侵入した何者かは、偶然や無差別な理由で8号室に入ったわけではなく、結城緋呂子さんに悪意を持っていた、というようなことでしょうか」

 言いながら、千鶴さんは冷たい表情になっていく。有賀も冷たい目をしながら言った。

「もっとはっきり言ってしまえば、結城緋呂子さんが何者かに恨まれている可能性ですね。もしかすると百合子さんも」

「ちょっと待って、何者かって、ぼくってことになりませんか。三つ橘が揚羽蝶を、って、曽我家が結城家を、刺すって意味になるんじゃ」

 緋呂子さんもそう解釈したから、ぼくへの態度がおかしかったのかもしれない。慌てるぼくに千鶴さんが言った。

「もちろん、そうは思いません。ただ、状況にはなんらかの悪意が感じられます」

「そう思わせるように、あなたが仕組んだ可能性もあるのではないですか」

 百合子さんが千鶴さんを睨みながら言った。思わずぼくが言い返してしまう。

「千鶴さんはそんなことしないですよ。だいたい、悪意があるなら、百合子さんが有賀の部屋にいるときに、緋呂子さんを連れていってます」

 言葉を失った百合子さんが、両手で頬をおさえてうろたえる。有賀はまったくフォローすることなく、短刀を持ったまま冷たい声を出した。

「僕はまだ、緋呂子さんが嘘をついている可能性も捨てていません」

「なんのためにですか。それに、祖母が仮に演技でそんなことをしたのなら、わたくしの服と短刀を隠す必要がないでしょう」

「あなたをも騙す必要があった可能性は」

「そんなことをする人は、あなたくらいです。祖母を疑うのはもうやめてください」

 必死に冷静な声を出そうとしているけど、百合子さんの声は震えていた。堪えきれなくなったのか、失礼します、と涙を拭いながら階段を上っていく。せっかくだから、有賀を一発殴っていけばいいのに。


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