14.アンジェリカの想い
展覧会が一週間後に迫っている日の午後、アトリエの窓が叩かれた。アンジェリカだ。
「普通に玄関から入って来ていいんだぞ」
「ここからのほうが先生に早く会えるから」
「それで今日は何の用事だ?」
「リャノン姉様の婚約が決まりました」
「それは吉報だな。相手は?」
「コルテス兄様のお友達で、イーサンさま。えーと、ガレット子爵家のあとつぎって言っていました」
「リャノン嬢はそれでいいのか?」
「はい、ちいさいころから知っている人で、イーサンさまはずっと姉様が好きだったらしいです。自分は子爵家だからと遠慮しているうちに、リャノン姉様が婚約してしまったのです」
「なるほど。イーサンは長年の恋が実ったってわけか」
「姉様も喜んでいます。すっかり元気になりました」
「アンジェリカ、ずいぶんと令嬢言葉が上達したな」
「ええ、シューリス先生に褒めてもらうと嬉しいからもっとがんばります」
アンジェリカはそう言って、アトリエの中を見渡した。
「先生、展覧会の絵は?」
「もう会場に送ったよ」
「私の絵、完成したのですか」
「ああ、良くできたと思うよ」
「見たかった……。展覧会に行ければいいんですけど、淑女教育でまとまった時間がなかなか取れなくて」
「気にするな。会場も街の一等地という訳ではないので、少し不便なところにある。展覧会が終わったら、持って帰ってくるよ。こちらに来るといい」
「はい!」
少し元気になったアンジェリカが、壁に立てかけてあるミルトン夫妻の肖像画を見つけた。
「あ、先生、この肖像画はどうするのでしょうか?」
「いろいろあったからな。ミルトン家に届け損なっている」
「私、持って行きます」
「いいのか。いろいろと苦い思い出もあるだろう?」
「すごくいい絵ですし、絵に罪はないもの」
「まったくだ。お茶でも飲んでいくか?」
「え、いいんですか」
俺は、さっきルイサに持ってきてもらったお湯でお茶を淹れた。
少しぬるめだったかと気にしたが、しばらくたつとポットから良い香りが漂ってきた。
「今日のワンピースはエレナのか?」
「ミルトンの所でも、いろいろ用意してくれるんですけど、これが気に入っているんです。先生がくれたから」
アンジェリカの顔が少し赤い。熱でもあるのかな?
「今日は馬車を用意するから、きちんと玄関から出るんだぞ」
「これで二回目ですね」
「なにが?」
「『玄関から出ろ』って、このお屋敷に初めて来たとき…えーと、泥棒に入った時が一回目」
「そうだったかな?」
「先生、盗んだ絵をまだお返ししていないので、この次に持ってきます」
「急がなくていい」
「では、ミルトンの家の私の部屋に飾っておきます。先生、いつでも取りに来てください。待ってます……」
それからはしばらく静かな時が流れた。アンジェリカのカップの持ち方やお茶の飲み方には目を瞠るものがある。すっかり淑女になったんだな。
あのはじけたような笑顔や、髪を一つに三つ編みにして俺に何度も頭を下げたアンジェリカが遠くへ行ったような気がして寂しさを感じた。
展覧会の初日は、生憎、小雨が降っていた。こんな日は誰も来ないだろうと思っていたのに、
朝一番で、ジェルマンが展覧会場にやって来た。俺は誘ってもいないし、展覧会があるとも言っていない。エレナをモデルをした絵を出品するからと、彼女に了承を貰ったがそれだけだ。
その絵は、ホスクに行った時の船の上での一場面だ。
「魚がいるわ!」「あの塔はなに?」「山の色が紫だわ」「渡り鳥がたくさんいる、かわいい!」
初めての船旅で、エレナが藤色の髪をなびかせながら随分とはしゃいでいた。笑顔がとても輝いていたから、その表情を閉じ込めておこうと思い、夢中でデッサンをした。
「いい絵だ。エレナが美しい、女神のようだ。執務室にぴったりだな」
仕事に差し障りがなければいいがな。
「この絵は私が買おう」
「買わなくても、差し上げますよ」
「いや、賄賂と思われても困る」
賄賂って…、ジェルマンに便宜を図ってもらったことなんてあったかな? もしかして外交部の副長への推薦か? 陛下の謁見の件か? でも俺が望んだわけでもないしな。
道路の通行料だって、法規制内ではあるが親戚割引しているんだから、俺の方が賄賂を貰う立場なんじゃないのか? まあ、買ってくれるならありがたいが。
「担当している画廊の方から連絡させます」
「そうしてくれ」
ジェルマンは、もうすぐに母親になるエレナが心配なのだろう。
他の作品を見ることもなく、待たせていた馬車に乗ってさっさと帰って行った。
展覧会自体はそこそこに成功だったと言える。ただし、新しいものには必ず批判が付きまとう。庶民の生活を切り取ったものが殆どだったし、人物画も横顔の一部しか書いていないとか、静止画も見たままではなく多方向から書いてあったりとか、多くの人には受け入れられない面もあった。
それでも風が吹いた。
展覧会が終わった次の日、アンジェリカはミルトン伯爵家の馬車で我が家にやって来た。
今日は第二サロンで会うことになっている。アンジェリカの絵もイーゼルに立てかけてある。
サロンに入って来たアンジェリカは、見た目だけは、どこかの令嬢みたいだ。いや令嬢だった。
「先生、いま、ばあちゃん…ではなくておばあ様と新しいミラに会って来ました」
「元気だったか? 店はどうだ?」
「ミラが一生懸命働いていて、おばあ様がとても喜んでイマシタ」
少し噛んでないか? 緊張しているのか?
「これが約束の絵だ」
「素敵…、光が躍っている! 何だか自分じゃないみたい。花の香りがキャンバスの外まで漂ってくるのがわかります」
「持って帰っていいぞ」
「ここにおいて欲しい」
「いいのか?」
「先生の傍に私を置いてほしい」
「……わかった。そうしよう」
アンジェリカが少し潤んだ目で俺の前に一歩近づき、俺を見上げた。
「先生、ミラが私に言ったの。『私たちは自分たちのことしか見えてなかった。いろいろな人にも迷惑をかけた。それでもエヴァンのことが今でも好きだし恋をしたことは後悔していない』って。それを聞いたときに、私、自分の気持ちがわかりました」
「気持ち?」
「私、先生のことがとても好きなんだって」
「ミラの話からどうしてそうなるんだ?」
「ずっと前からなの。先生のちょっとした動作も言葉も自分の中で何度も繰り返して、それがとても楽しくて、ドキドキして眠れなくなったりもするの。それなのになんだか自分が怖くなる時があって。ミラの話を聞いて思ったの。私も先生と一緒ならきっとどんなことでもできる。それが『怖い』の原因だって。だから先生がすごく好き」
これはまた直球だな。嬉しいことは嬉しいのだが、あのアンジェリカだ。額面通り受け取るのは少し躊躇われる。
「そうか……、時間をくれ」
「私なんか先生に相応しいとは思っていません。でも、先生を思う気持ちはだれにも負けない!」
薄い青紫の瞳をらんらんと輝かせた顔には並々ならぬ決意が感じられた。本気なのか?
「必ず、淑女になって先生が恥ずかしいと思わないような女になります。だから待っていて欲しいのです」
一言一言間違えないように言葉を紡ぐアンジェリカが愛おしい。
「わかった。わかった」
俺はアンジェリカの頭をポンと叩いた。
「心配するな。お前が恥ずかしいなんて少しも思っていない。俺もお前が好きだ。どんなお前でも好きだぞ」
「え? ホントに?」
そうだ、人は成長する。だから愛も育てなくてはいけないのだ。
「将来のことは一緒に少しずつ考えよう」
「先生! ありがとうございます……」
その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
俺はそれが嘘の涙でないことを願いながら、そっと彼女の肩を抱いた。
終
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