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幸徳秋水『帝国主義』は、120年後の『人新世の「資本論」』だった  作者: 深海周二


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幸徳秋水『帝国主義』は、120年後の『人新世の「資本論」』だった

序 教科書のすみっこの剥製

幸徳秋水こうとく・しゅうすい。この名前を、たぶんあなたは聞いたことがある。

高校の日本史。明治時代。明治天皇の暗殺を企てたとして捕らえられ、処刑された男。「大逆事件」。そう、あれだ。

ただ、不思議なもので、名前だけは覚えているのに、中身がまるで思い出せない同級生がいる。幸徳秋水は、日本史におけるまさにそれだ。名前は強烈に残っているのに、どんな顔で、何を考え、何を書いた人物だったのかは、ほとんど誰も知らない。

私たちが知っているのは、たった二つ。「名前」と、「処刑された」という事実。その二つだけが、剥製のように教科書のすみっこに貼りつけられて、中身は空っぽのままになっている。

この文章でやりたいのは、その剥製に、もう一度だけ血を通わせてみることだ。

なぜ、120年も前に死んだ男の話をするのか。理由はひとつ。彼が120年前に書いた一冊の本の中身が、2020年に出て50万部売れたあるベストセラーと、気持ち悪いほど同じことを言っているからである。

古い白黒映画だと思って観はじめたら、中身が完全に、いまの世界を描いたSFだった。そういう薄ら寒さの話だと思ってもらえればいい。


一 幸徳秋水『帝国主義』に書かれていたこと

一九〇一年、明治三十四年。幸徳は『廿世紀之怪物帝国主義にじっせいきのかいぶつ・ていこくしゅぎ』を世に出した。タイトルからして、もう只者ではない。「二十世紀の怪物、帝国主義」。怪物、である。

当時の日本は、日清戦争に勝って「いけるじゃないか日本」と、いささか天狗になりはじめた頃だった。よその国に軍隊を出し、領土を広げるのがカッコいい。そういう空気が、国じゅうに満ちていた。

幸徳は、そこに冷や水を浴びせる。彼が言ったのは、こうだ。戦争や植民地の奪い合いは、軍人が勇ましいから起きるのではない。その裏には、ぜんぶ「カネ」の事情がある――と。

噛み砕こう。当時の最先端の経済の話だが、難しくはない。

まず、自由競争で、みなが商売をする。すると、勝った者が市場を少しずつ独り占めしていく。独占である。これは、私たちが実物を見てきたはずだ。昔は賑わっていた駅前の商店街が、いつのまにかシャッター街になり、郊外の巨大なショッピングモールが一つだけ、ぽつんと栄えている。あの光景だ。勝った者が、すべてを吸い込む。

独占して儲かると、国の中にカネが余る。ところが――ここが肝心なのだが――国内の庶民は貧しいままだ。給料が安いから、モノを買えない。儲ける側と、買えない側に、社会がぱっくり割れる。

すると、余ったカネとモノの「はけ口」が、国内になくなる。ではどうするか。外に出すのだ。海外へ、植民地へ。そこに工場を建て、モノを売りつけ、資源を奪う。そして、それを守るために軍隊を出す。

幸徳は、この仕組みを動かす連中を名指しした。カネを出す「投資家」。海外で一山当てようとする「山師やまし」、つまり投機師。そして、それを軍事力で後押しする「国家」。この三者がグルになっている、と。金主と、山っ気のある現場と、用心棒。役割分担が、実にきれいにできている。

幸徳がさらに鋭いのは、ここからだ。

この三者連合は、自分たちの金儲けを、そのまま「金儲けです」とは決して言わない。「正義」や「愛国心」という、立派な化粧をほどこすのだ。

それは、ブラック企業が「うちは社員を家族だと思っている」と言いながら、サービス残業をさせてくる、あの感じに似ている。いちばん搾り取るところで、いちばん温かい言葉が使われる。

当時、マハン大佐という軍事の権威がいた。「兵役は人間を立派にする」「戦争は男の道徳を鍛える」といった言説を、もっともらしく説いて回った人物だ。幸徳はそれを、ばっさりと斬る。嘘をつけ、と。そんなものは、戦争をしたいという本音を隠すための、きれいな上着にすぎない、と。

これが、一二〇年前の話である。どこか、聞き覚えはないだろうか。

幸徳の診断を、一行にまとめておく。資本主義とは、自分の中の矛盾を、いつも「外」に押し付けて生き延びる仕組みだ――。

これは、ちょうど『進撃の巨人』の壁に似ている。問題を壁の外へ追い出しているあいだは、内側は平和に見える。だが、外が尽きた瞬間に、話がまるごと変わってしまう。

中の貧しさも、余ったカネも、すべて「外」、すなわち植民地に押し付けて、なかったことにする。だから資本主義は、つねに「外」を必要とする。外がなければ、生きていけない。

この一句を、覚えておいてほしい。「外がなければ、生きていけない」。これが、本稿のキーワードである。


二 一二〇年後の『人新世の「資本論」』

さて、時計の針を、一二〇年進める。

二〇二〇年。斎藤幸平という、当時まだ三十代の学者が、『人新世ひとしんせいの「資本論」』という新書を出した。これが爆発的に売れて、五十万部。新書で五十万部というのは、お化けの数字である。本の世界における『鬼滅の刃』のようなもので、ふだん本を読まない層まで巻き込んだ。

「人新世」とは、人間が地球をいじりすぎて、地質レベルで惑星そのものを変えてしまった時代、というほどの意味だ。表紙だけを見れば、気候変動の本だと思う。

ところが読んでみると、これが幸徳とほとんど同じことを言っている。

斎藤の主張はこうだ。いま私たち先進国の豊かな暮らしは、どこかの誰かに「ツケ」を回すことで成り立っている――。

幸徳の時代、そのツケの押し付け先は「植民地」だった。では、いまはどこか。地球の自然と、グローバル・サウス、すなわち途上国である。

たとえば、やたらと安いTシャツ。やたらと安いスマートフォン。なぜ安いのか。遠くの国の安い労働力と、壊された自然環境というツケを、私たちの目に見えないところへ押し付けているから安いのだ。「翌日配送、便利だ」と喜んでいる、その裏側で、誰かが倉庫をヘトヘトになって走り回っている。あの構図と同じことが、地球規模で起きている。斎藤はこれを「帝国的生活様式」と呼ぶ。私たちは知らぬまに、ミニ帝国主義の住人になっている、というわけだ。

そして、ここも幸徳とそっくりなのだが、斎藤もまた「きれいな化粧」を斬る。

幸徳の時代の化粧が「愛国心」だったとすれば、いまの化粧は何か。斎藤は、ずばり「SDGs」だと言う。エコバッグを持ち、マイボトルを携え、「自分はいいことをしている」という気分になる。だが、社会の仕組みそのものは何ひとつ変わっていない。

これは、少し二十四時間テレビに似ている。募金する人の善意は本物だ。けれども、感動して、泣いて、終わったあと、貧困を生み出している仕組みのほうは、まるっとそのまま残っている。むしろ「いいことをした」という満足が、誰も仕組みを変えようとしない言い訳になってしまう。斎藤はこれを「大衆のアヘン」と、かなり辛辣な言葉で呼ぶ。

ともあれ、幸徳と斎藤は、一二〇年離れていながら、診断がまったく同じだ。資本主義は、外にツケを押し付けて生き延びる、と。

だが、たった一つだけ、決定的に違うことがある。

幸徳の時代には、まだ「外」があった。植民地という、ツケの押し付け先が、地球上に残っていた。逃げ場があったのだ。

ところが、いまはもう、外がない。地球は丸く、資源にも環境にも限界がある。押し付けようにも、押し付ける先がもう残っていない。

さきほどのキーワードを思い出してほしい。「外がなければ、生きていけない」。その外が、いままさに、無くなろうとしている。これこそ、斎藤が突きつけた、いちばん寒気のする話である。

ちなみに、幸徳も斎藤も、最後にたどり着く答えは、これまた同じだ。みんなで分け合おう、というのである。独り占めをやめ、水も電気も土地も、みんなの共有財――難しい言葉で「コモン」――として持ち直し、上から押し付けられるのではなく、自分たちで自発的に助け合う共同体をつくろう、と。専門用語では「アソシエーション」と言うが、平たく言えば「山分けと、助け合い」だ。昔の少年漫画の、あの精神である。ひとりで勝つな、仲間と勝て。


三 閑話 竹の花の話

ここで、一見まったく関係のない話を、ひとつ挟ませてほしい。

竹の花を、見たことがあるだろうか。

ないはずだ。普通はない。なぜなら竹は、だいたい一二〇年に一度しか花を咲かせないからである。一生に一度、見られるかどうかというレベルの現象だ。

しかも不気味なことに、竹は花を咲かせると、その竹林がぜんぶ、いっせいに枯れる。一本残らず。地下ですべて繋がった、一個の生き物だからだ。一二〇年かけて静かに広がり、ある日いっせいに花を咲かせ、そして、いっせいに死ぬ。『風の谷のナウシカ』の腐海に、どこか似ている。静かに、静かに広がって、ある周期になると、一気に景色をすべて塗り替えてしまう。

だから昔の人は、竹の花を「不吉の前兆」と呼んで、怖れた。

ここからが、少し背筋の寒くなる話だ。

その竹――ハチクという種類なのだが――が、いままさに咲いている。二〇二〇年ごろから、日本中で、いっせいに。そして、枯れはじめている。コロナで世界中がひっくり返っていた、ちょうどあの時期にだ。

では、その前にハチクが咲いたのは、いつか。およそ一二〇年前。そう、幸徳が『帝国主義』を書いた、あの頃である。

つまり、幸徳が本を書いた年に咲いた竹の、ひ孫のような竹が、斎藤の本が出た二〇二〇年に、また咲いて、また枯れようとしている。

偶然だ。もちろん偶然である。竹は思想など読まない。

読まないのだが――どうにも、ぞっとしないだろうか。


四 柄谷行人の「歴史は反復する」

この「一二〇年」という数字に、まじめに取り組んだ思想家がいる。柄谷行人からたに・こうじんだ。

彼の主張は、きわめてシンプルで、しかしひっくり返るようなものだ。歴史は「発展」しているのではない、「反復」しているのだ――と。

私たちは、なんとなく信じている。歴史はだんだん良くなっている、進歩している、前へ進んでいる、と。柄谷は、いや違う、と言う。だいたい一二〇年ほどの周期で、似たような構造がぐるぐると繰り返しているだけだ、と。一本道を前へ前へ進んでいるつもりが、じつは同じ景色をぐるぐる回っている「ループもの」だった、という話である。

詳しくは立ち入らない。立ち入らないが、一つだけ言っておきたい。柄谷が描いた「歴史の繰り返しの見取り図」のなかに、なんと「大逆事件」が、節目として現れるのだ。

そう。この文章の冒頭で触れた、幸徳秋水が処刑された、あの事件である。

偶然にしては、いささか出来すぎてはいないか。


五 野蛮か、分かち合いか

ここまでの話を、すべて繋げてみる。

幸徳は、一二〇年前に診断した。資本主義は、外にツケを押し付ける。やがて、そのツケの取り合いになる、と。

では、幸徳が診断したその病は、その後どうなったか。歴史を知る私たちは、答えを知っている。第一次世界大戦。そして、第二次世界大戦。帝国主義は、最後に「世界大戦」という形で爆発した。何千万人もが死んだ。幸徳が「二十世紀の怪物」と呼んだものは、本当に、怪物になったのだ。

『AKIRA』の鉄雄のようなものである。最初は「こんな力、自分で制御できる」と思っていた。だが最後には、その力が膨れ上がり、街をまるごと呑み込んだ。

さて。ここで、さきほどの「反復」の話に戻る。

もし、歴史が本当に反復するなら。もし、一二〇年周期が、ただの偶然ではないのなら。計算してみよう。幸徳が本を書いたのが一九〇一年。そこに一二〇年を足すと、二〇二一年になる。

つまり私たちは、いま、ちょうど幸徳の時代の「続き」の位置に立っている。竹が、ふたたび咲いた、まさにこのときに。

そして、幸徳の時代の「続き」は、何だったか。

――戦争だった。

二〇二〇年代には、なんとなく、漫画でいう「平和な日常回が、そろそろ終わりそうな空気」が漂ってはいないだろうか。登場人物はまだ笑っている。だが、読んでいる私たちのほうが、「ああ、これは次の章から、きついやつが始まるな」と薄々わかっている。あの感じだ。

竹は咲いて、枯れる。一二〇年かけて。

幸徳と斎藤は、一二〇年を隔てて、私たちにまったく同じ問いを突きつけている。それは、こういう問いだ。

「野蛮か。それとも、分かち合いか」。

野蛮とは、奪い合いだ。戦争。資源と生き残りをかけた潰し合い。分かち合いとは、さきほどの「山分けと、助け合い」。アソシエーションである。ひどく雑に言えば、『北斗の拳』の世界へ行くのか、『ワンピース』の世界へ行くのか、という分かれ道だ。奪い合う荒野か、分かち合う航海か。

私たちはいま、その分かれ道に立っている。外がもう無い世界で。竹が枯れていく、この時代に。

歴史が進歩ではなく反復だとしたら、次に来るのは何か。幸徳の続きを、そのままなぞるのか。それとも、一二〇年前に幸徳が、一二〇年後に斎藤が、必死で指さした、もう一本の道へ行けるのか。

それは、たぶん、私たち次第なのだと思う。

教科書のすみっこに貼られた剥製は、ほんとうは、私たちのいまを指さしていた。名前しか知られていなかった男は、一二〇年越しに、こう問いかけてくる。

――それで、君たちは、どちらへ行くのか、と。


※この記事は「小説家になろう」「カクヨム」に同時掲載しています。

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