第46話 布石
アストラ家、地下。
両側に鉄格子が並ぶその通路には、カビの匂いが漂う。
何も変わらない陰気な風景。
しかし、いつもとは違う騒々しい雰囲気を、アストラ家メイド長であるジンは感じ取っていた。
通路に横たわっているのは大蜘蛛の骸。
ジンの眷属である。
体表に無数の穴が空いており、そこから僅かに煙が出ていた。
そして、小さい鉄の筒が周囲の至る所に転がっている。
今まで見たことのない、あまりに異様な光景であった。
『ここで、いったい何があったというのですか……?』
ジンは眉を顰める。
大蜘蛛の死体の先に進んでみると、そこには一人の少女が倒れていた。
この家の召使。
シーナという名前をつけられた、出来損ないの人造人間だ。
ジンはシーナの元に近寄り、体を抱き起こす。
微かに呪いの気配がした。
どうやら、禁じられている魔法を使ったらしい。
『ふ……ちょう……さま……』
意識が朦朧としているようだ。
この大蜘蛛をこれがやったのか……?
いや、そんなはずはない。
これにそこまでの魔力も魔法技術もあるわけがなく、たとえ低級の魔法であっても、呪いの影響でこのように力尽きてしまう。
蜘蛛をやったのは、シーナではない。
では、一体何が————
『おっと、動くなよ』
突如、後ろから声をかけられた。
飄々とした男の声。
こんな場所にいるはずもない、聞いたことのない男の声だった。
『何者ですか? 私の眷属を手にかけたのはあなたですか?』
外からの侵入者なのか————それはありえない。
アストラ家周辺にもジンの眷属を配置しているため、ジンが気づかないはずがないのである。
では、一体どこから現れたのか?
まだ後ろにいるため、その姿を視認できていないが、只者ではない気がする。
ジンの背後を取れる存在など、この世にほとんどいない。
『ケツも胸もタッパもある悪くねえ女だ。なあ、俺達はめんどくせえ連中に追われてる最中なんだ。とっととこの場所から離れてえと思ってるんだが、ちと手伝ったちゃくれねえか?』
男は軽薄な言葉を並べて、こちらに程度の低い提案をしてきた。
なんだ、ただの賊か。
少し警戒していたが、大したことはなさそうであった。
『誰があなたのような者の言うことなど————』
『いいや? あんたは俺には逆らえない。目と耳と考えられるおつむさえありゃ、これは必然だ』
すると、男の手がジンの後頭部に当たる。
その瞬間、体の自由が効かなくなった気がした。
『あんたは10分後、ここであったことの一切を忘れる————俺の命令は絶対だ』
*
「————まさかとは思いましたが」
そして現在、アストラ家正門前。
静寂が訪れていた。
アストラ家の館に向かって立つのはアイス。
そして、その正面に不自然な格好で硬直しているのは、ジンだった。
「言っただろう、右手をあげたら、そりゃ『止まれ』の合図だ」
ジンは鋭い手刀を繰り出し、アイスの首を刈り取ろうとしていた。
それがすんでの所で、止められたのだ。
少しも体を動かすことができない。
もう既に、この男の洗脳は実行されていたのだ。
「いつですか? いや、そもそもどうやって……?」
「まあ分からねえだろうな。とりあえず俺から言えるのは、この俺を甘く見積もりすぎだってことだ」
アイスはゆっくりとジンとの距離を詰める。
芝生を踏み締める足音が、やけに強調されて聞こえた。
そして、懐から銃を取り出し、ジンの額に突きつける。
「さて、そろそろ茶番は終わりにしようぜ」
「取引を————しませんか?」
ジンは咄嗟に口を開く。
アイスは引き金をすぐには引かなかった。
「アストラ家は、あなた達から手を引きましょう。賢者の扉からどうぞお帰りください」
「……」
ジンの提案に対し、アイスは無反応だった。
次第に強くなる風が、アイスとジンの間を吹き抜ける。
張り詰めた緊張感が漂う中、ジンは言葉を続けた。
「どういう手を使ったのかは知りませんが、館の裏側からあなたの仲間が侵入しています。ですが、待ち受けているのはラムエリア様、凄腕の魔術師です」
地下の牢獄で会った魔法使い。
セラフィリアの兄。
それが、力を封じられているセラフィリアと、魔法が使えないリルとぶつかっている。
「あなたの仲間などすぐに殺されるでしょう。しかし、私が協力すれば、ラムエリア様を退け、あなた達の逃亡の時間を稼ぐことは十分に可能です。セラフィリア様の安全も保証しましょう」
この男とて、この作戦の強引さは分かっているだろう。
ラムエリア様がいる限り、侵入者達は目的を達成することができない。
ジンの提案は考える価値があるもののはずだ。
しかし————それを聞いたアイスは笑った。
「クハハハ……だから言ってんだろうが、俺達を甘く見積り過ぎだって」
アイスが銃口をさらに強く突きつける。
男は笑っているが、とてつもない威圧感を放っていた。
「俺の相棒が簡単にくたばるわけがねえ。それにもう既に策は打ってある。てめえの取引は取引として成立しねえんだよ」
「……!」
嘘を言っているようには見えない。
まさか、本当にこの状況を覆すことができるとでも……?
ジンは表情には出さないようにしているが、静かに慄いていた。
魔力も持っていないただの人間。
だが、そのプレッシャーはまるで悪魔のようであった。
アイスは、ニヤリと笑みを浮かべて、ジンに宣告する。
「取引っつうのは己の魂をかけてやるもんだ。今から俺がてめえに持ちかけてやる取引は、そんな生やさしいもんじゃねえ。覚悟するこったな」




