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逃げ場のない夜

 翌日から、また研究室での生活が始まった。


「マノちゃん、この本午後に読んでほしいからそこに置いておくよ!」

「わかりました!」

「川田くーん、先週のデータまだ数字出てない〜?」

「あ、もう少しで終わります!」


 以前より茉乃ができることが増えた分、研究室全体でやるべきことも増えていく。さらに、データとしてまとめたものを茉乃が読むことも増えた。それによってデータを文字情報として残しておけるようになり、より研究室内での情報共有はしやすくなった。



 その週はずっとそんな調子だったので、茉乃は気付かないうちに喉を痛めていた。


「こほっ、こほっ」


 前日からマスクをしてのど飴を舐め、何とかやり過ごしてきたが、どうも週末に限界が来たようで、その日は全く本を読むことが出来ずにいた。


「ごめんなさい・・・」


 掠れた声でみんなに謝ると、むしろこちらが申し訳なくなるほど心配されて、今日は休んでいるようにとリーダー沢木から指示があった。


「今日はもうだめ!鈴村さんが迎えに来るまで休んでて。」

「僕の部屋のソファーで寝てるといいよ。」


 江口が鍵を茉乃に手渡し、彼の部屋まで無理やり連れていかれた。


「具合が悪い君のことまでどうこうしようとは思わないから、とにかくここで休んでて。あ、これ僕のローブ。かけて寝てるように。鈴村に伝えとく。」


 そう言って江口はすぐに部屋を出ていった。


 言われた通りに部屋で休んでいると、次第に喉の痛みだけでなく、少し熱も上がってきているのを感じた。


「柊さん・・・」


 一気に心細くなり、体も震えてきて、江口のローブにくるまってお迎えを待った。




 何分くらい経ったのだろうか。茉乃が目を覚ますと、そこはもう真っ暗になっていた。電気をつけようと起きあがろうとするが、体中が痛くて動けない。喉はじんじんと痛み、唾を飲み込むのもやっとだった。


(熱が高いのかな、寒い・・・)


 やっとのことで電気をつけて時計を探すと、もう十九時過ぎになっている。


(柊さん、やっぱり今日も残業かな)


 震えながら少し起き上がって待っていたが、柊は一向にやってくる気配が無かった。



 意識が朦朧とし始め、もう駄目だと思った時、ドアが開く。だが入ってきたのは江口だった。


「え?藤堂さん?なんで・・・鈴村は?」


 質問されたが茉乃にはもう答えることはできなかった。


「藤堂さん?大丈夫!?わ、すごい熱!医務室はもうやってないから、病院に行こう。」


 江口は茉乃を軽々と抱き上げ、駐車場に降りていく。そのまま車の後部座席に乗せられ、気が付いた時には病院の白いベッドの上だった。




 目を覚ますと、なぜかそこに江口がいた。茉乃の手を握り、顔をじっと眺めている。


「藤堂さん、起きたね。調子はどう?あ、声には出さなくていいよ。目で教えて。」


 茉乃は目をゆっくり閉じて、また開いた。


「だいぶ良くなったみたいだね。点滴も打ってもらって、かなり熱は下がったってさっき看護師さんが言ってたよ。」


 茉乃はもう一度目を閉じて開いた。



「こんな時に言うのもどうかなとは思うんだけど。」


 江口が茉乃の手を今度は両手で握りしめながら語り出した。


「僕は君がどうしてそんなに一生懸命になれるのか、よくわからなかったんだ。ずっと。」


 茉乃は江口の言葉の意味がわからず、ただその顔を見つめている。


「でも今日わかった。君はいつも他の人のことばっかり考えてるんだね。みんなが仕事がしやすいように、もっと研究の成果が出るように。今日だってあんなに辛そうだったのに、僕との実験もやろうとしてたでしょ?」


 つい目が泳ぐが、その顔を江口に「あはは」と笑われた。初めて笑い声を聞いたかも、と茉乃はぼんやり考える。


「僕は今まで自分さえよければいい人間だった。権力のない世の中にするのだってあの家に縛られたくなかったからだし、君とのことだってあの力が欲しかったからなんだ。でもそんな自己中心的な僕に君は、こんなに具合が悪かったのにまだ力を貸そうとしてた。」


 いつも無表情な江口の顔に、苦悶の表情が浮かんでいた。


「どうして君はそんなにすごいことができるんだ?だって君は君に関係のない世界を助けようとしてる。・・・君は僕に無いものをいっぱい持ってる。僕はやっぱり君がいい。君のこと、もう好きになってる。」


 茉乃は声を出すことが出来ず、困惑したまま、手に感じる江口の温もりに動揺していた。


「好きだよ。好きだ。こんな時に現れないあいつじゃなく、僕を選んでよ、藤堂さん・・・茉乃・・・」


 江口の雰囲気が変わる。茉乃はその空気に怯えた。


「今なら、君にキスしても怒られないね。」


(ダメ・・・やめて・・・!)


 そして茉乃は、混乱の中でそのあってはならない唇への温もりを、受け止めきれずにもがいていた。


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