少しだけ甘い金曜日
業務時間が終わり、片付けを終えると茉乃は荷物を持って研究室の外に出るところだった。
「マノちゃん!」
沢木に声をかけられ振り向くと、真剣な表情の彼が少し近くに立っていた。なぜかもういつものリュックを背負っている。
「はい、どうしたんですか?」
「あのさ、今日はちょっと早く帰れるんだけど、その・・・一緒に、ご飯でもどうかなって。」
「・・・ごめんなさい。今日は先約があるので。」
「え!ああそうなんだ。・・・鈴村さん?」
茉乃の顔が少し強張る。
「そうです。ただ夕飯を外で食べるってだけですけど。それじゃあ、失礼します。」
沢木が何かを言いたそうな表情でいることはわかっていたが、見えていないことにして研究室を出た。
ちょうどそこに柊が現れ、優しく微笑んで茉乃を呼ぶ。
「マノちゃん!」
そんなことがとても嬉しくて、茉乃もつい微笑んでしまう。
「タイミングぴったりでしたね。」
「そうだね。嬉しいな。じゃあ、行こうか。」
そうして、適度な距離感を保ちつつ、二人はいつものように駐車場に向かった。
車に乗り込むと、柊はいつも以上にゆっくりと車を走らせていく。
彼の横顔は穏やかで落ち着いている。茉乃はもう彼の顔を怖いとは思わなくなっていたし、年齢以上の時間を重ねた男性の顔だな、と感じられるようになっていた。
(いろんな世界を渡り歩いていた、って言ってたけど、いったいどれほどの年月を過ごしてきたんだろう・・・)
「マノちゃん、何か食べたいもの、ある?」
声をかけられて現実に意識が戻る。横を見て自然に質問をしてくれるその姿すら、今の茉乃には素敵に見えた。
「そうだなあ、安くて美味しいもの!お願いします!」
「お、また難しい提案がきたなー!じゃああそこかな?車を降りてから少し歩くけど、いい?」
「はい!楽しみ!」
一ヶ月経ってやっと、以前の二人を取り戻してきた気がする。この状態が続いていけば、ここを去る時には気持ちも穏やかにお別れができるはず、そう茉乃は信じていた。
柊が思い付いたお店は、少し街外れにある小さな焼き鳥屋さんだった。店構えも、何かしらの記号のようなものが書かれているのれんも渋い。
お酒さえ飲まなければリーズナブルで、しかも絶品だから!と強くお勧めされて、楽しみにしていた。
中はカウンター席と小さなお座敷が一つ、テーブル席が二つほどの広さで、カウンター席が二つしか空いておらず、よかった!と言いながらそこに腰掛けた。
「何か食べたいものある?なければ僕がお勧めを選ぶよ!」
「じゃあ今日はお任せで!」
柊が選んだ焼き鳥を食べ、幸せな気分でたわいもない話をする。
「そうそう!今度佐藤所長の家でバーベキューしないかって誘いがあってさ。マノちゃんも一緒にどう?」
「え!私も行っていいんですか?」
「二人を誘ってくれたんだ。僕もマノちゃんが一緒の方が楽しいし。」
(彼女さんと一緒の方がいいんじゃないのかな・・・)
「マノちゃん?」
「はい!あの、本当に私でいいんですか?」
「・・・」
柊は最後に食べていた串を皿の上に置いた。
「ねえ。何に気を遣ってるの?」
あの、大人の男性の目で茉乃を見つめる。
「気なんて、別に・・・」
茉乃は目を合わせられなくなる。
「俺は君と一緒じゃなきゃ嫌なんだ。これで伝わる?」
「伝わるって、何が・・・」
柊の目を見てしまって後悔する。彼の目は、恋愛に疎い自分でも何となくわかるくらい、茉乃を求めている目だった。
(ううん、そんな訳ない。柊さんがそういう目で私を見ているはずがない!私が意識しているからそう思えるだけだ)
「茉乃・・・?」
「あの、じゃあ、私行きます!お誘いありがとうございます!」
グラスに残っていたわずかなウーロン茶を飲み干しても、一向に心の動揺は収まらなかった。
美味しい焼き鳥を存分に味わって、帰路に着く。車までの道のりは、少し離れて静かに歩く。街灯の少ない道で二人は秋の涼しさを心地良く感じていた。
「涼しくなったね。」
「そう、ですね。」
「もう君がこっちに来て二ヶ月以上経つんだね。何だか不思議な感じ。」
「本当に。すでにかなり馴染み始めている自分がいて驚きます。」
「うん。しっかり馴染んでる!」
虫の声があちらこちらから聞こえてくる。
「ねえ、茉乃。」
「柊さん!!」
「うわ、突然なに!?大きい声で!」
「どうして・・・突然そんな・・・私のことを呼び捨てで呼ぶようになったんですか?」
柊は歩みを止めず、横にいる茉乃を優しく見つめながら質問を返してくる。
「・・・どうしてだと思う?」
「質問に質問で返すのやめてください!もう!」
「あはは!ごめん。でも理由は、まだ言わない。」
柊が暗い夜道の中で立ち止まる。
「柊・・・さん?」
「これからはずっと、茉乃って呼ぶから。」
「え、ちょっと!」
言うだけ言って、柊は茉乃の少し先を歩き始めた。茉乃は抗議を伝える相手がいなくなって、不満顔のままその姿を追いかけていった。




