小さなしこり
研究所から自宅に帰り、柊は早速着替えた。窓の外はまだ日が高く、飲みに出かけるまでかなり時間がある。
キッチンに入り、グラスにペットボトルの水を入れて一気に飲み干す。
「落ち着け、俺。」
さっきの茉乃の笑顔が、繰り返し頭に浮かぶ。
『私はそんな大層な人間ではないです。人と関わることを避けて、本の世界に逃げ込んだ臆病者です。でも、関わったからには全力を尽くしますし、それはとても楽しみなことなんです。だから、そんなに心配しないでください。』
彼女は階段の踊り場でそう告げて、そして柔らかく美しく、柊の目を見て微笑んだ。
(あんな自然な、甘い笑顔を俺に向けてくるなんて、無意識にしたって心臓に悪い)
彼女はあまり気付いていないようだが、本来とても美しい女性だ。これまでメイクや髪型にそこまで気を遣ってこなかっただけで、顔のパーツもバランスも素晴らしい。そんな彼女があんな無防備な笑顔を向けてきたらそれは・・・
柊はそこまで考えて頭を振った。
(駄目だ。彼女は大切なお客様なんだ。佳乃さんからお預かりした大切な・・・うん、大丈夫。彼女を二年後には無事に元の世界に返してあげるんだ。あの笑顔を守るためにも!)
グラスをサッと洗い、布巾で丁寧に拭いてカップボードに戻す。小さなしこりが心の中に生まれたことを、柊はまだ認めるわけにはいかなかった。
研究所を一通り案内してもらった後、茉乃は柊の車でマンションに戻る。今後はどうやって通えばいいのかと彼に相談したが、「絶対に僕が毎日送るから!」とゴリ押しされてしまったので仕方なく折れた。
自分の部屋に戻った茉乃は、部屋でダラダラと寛ぎながら、洗濯をしたり片付けをして過ごした。
(そういえばさっきの柊さん、ちょっと怖かったな)
洗濯物を干しながら研究所での柊の姿を思い出す。いつも、と言ってもたった三日だが、茉乃に見せる顔とは違う、冷静で厳しい一面を見て少し驚いた。
(ストーカーセクハラおじさんみたいな扱いをして申し訳なかったかな?)
この三日間の彼の姿は、もしかしたら茉乃を安心させるための演技だったのかもしれないと思ったが、どちらにしろ、からかわれるのは本意ではないのであれでよかったんだと思うことにした。
家事を一通り終えると、だいぶ良い時間になってきたので着替えてメイクを直す。
あまり上手ではないが、すみれさんや結城さんの顔を思い出しながらちょっとだけ、いつもよりまつ毛を上げてみた。長くてバサバサしているだけで、あまりカールがうまくいかないことが多いこのまつ毛が茉乃は苦手だ。
今日は繰り返しビューラーを使ってできるだけ上げてみる。マスカラを薄くつけて鏡を見ると、少しはマシな顔になった気がした。
あと一時間ほどで出発かと思いながら、座り心地の良いローソファーで、スーツケースに入っていた本をゆっくりと読み始めた。
「マノちゃん?マノちゃん起きて!」
(うーん、眠い・・・ え、え!?柊さん?)
茉乃は慌ててソファーから飛び起きた。なぜか柊がソファーの側に立って心配そうに見つめていた。
「よかった・・・体調が悪いのかと思って焦ったよ。寝てただけならいいんだ。そろそろ時間だからと思って待ってたけど出てこないから、ごめんね、部屋に入っちゃったけど。」
「いえ!寝てしまった私が悪いんですから気にしないでください。それより起こしてくださってありがとうございました!」
茉乃は自然と笑顔になる。
「・・・マノちゃん、ようやく自然に僕のこと見られるようになってきたね。」
「え?」
「もうこの顔、怖くない?」
ああ、そうか、と茉乃は反省する。
「はい。ごめんなさい。昔のことと柊さんは何も関係ないのに、顔がいいってだけで無意識に怖がっちゃうんですよね。感じ悪かったですよね、本当にごめんなさい・・・。」
「いや、いいんだ。昔何があったかは聞かない。でも生きていれば怖いことは誰にでもあるから。これからは俺が・・・」
「え?」
柊が無表情で目を伏せた。
「いや何でもない。これからは僕や研究所のみんなが君の助けになれるようできる限り頑張るから、君も無理はせず、困ったこと、怖いことがあれば何でも相談して。」
「はい、わかりました!」
柊は「じゃあ行こうか」と言って先に玄関を出る。茉乃はバッグを持つと、その後ろ姿を急いで追いかけた。




