ふたりの夢
* * *
ラインスは、鎧の下、胸のあたりに、温かさを感じたような気がした。
そこに、妹から贈られた白い羽があるのだ。
初めて試合場に足を踏み入れた瞬間、目の前に広がった光景には、さすがに驚愕した。
今も、周囲のぐるりを取り巻く階段状の観客席に人々が隙間なく立ち並び、こちらに向かって声を張り上げている。
今にも将棋倒しに崩れ落ちてきて、こちらを押し潰してしまいそうだ。
だが、ラインスの心は冷静で、試合場をどよもす大歓声にも圧倒されることはなかった。
無数の観客たちの目――
この中のどこかにいるはずの、師匠であるガストンの目さえ、ラインスにとっては重圧とはならなかった。
彼にとって、意識する相手は、ただひとり。
この場にはいない、妹ティアだけだ。
そう……妹がいなければ、ラインスはおそらく、御前試合の場に立つなどということは考えもしないまま人生を送っていただろう。
この夢――
彼のだけではない、兄妹ふたりの夢は、ずっと昔、まだ子どもだった頃に始まった。
『おにいちゃん……ねえ、おはなしして』
幼い頃からベッドで寝つくことが多かったティアは、ラインスが側に来ると、いつもそう言ってせがんだ。
近所の子どもたちと遊んだことや、どこそこに行ったなどという話をすると、ベッドから動くことのできないティアが羨ましがって可哀想だから、ラインスはいつも神殿で習った《大戦》時代の英雄譚や、名高い姫君たちの物語を話してやることにしていた。
だが、それもとうとう種切れになると――何しろ、ティアは起き上がれる日のほうが少なく、ほとんどいつでもベッドにいたのだから――、ラインスは、自分で作ったおはなしをきかせてやることにした。
『むかしむかし、ラインスという名前の男の子がいました。
ラインスには、妹がひとりいて、その子はティアという名前でした。
ティアは、ちょっと体の調子が悪かったけど、とても優しい女の子でした……』
食い入るように先を待っている妹の前で、ラインスは、ちょっと考えた。
先をどう続けたらいいか、迷ったのだ。
昔の英雄たちのように、怪物退治にでも行こうか?
それとも、辺境の戦士たちのように《呪われし者》と戦うとか?
でも、それでは、ティアは家で待っているだけの話になってしまう。
何と言っても、これはおはなしなのだから、最後は「めでたしめでたし」で終わらなければならない。
もちろん、自分だけじゃなく、妹も――
そう考えたとき、ふと心に思い浮かんだのが、ちょうどその年に開催された御前試合のことだった。
ラインスは、大きく頷いて、続きを一気に語りきった。
『ラインスは、剣の練習をたくさんして、ものすごく強くなりました。
そして、御前試合に出ることになりました。
御前試合には、強い相手がたくさんいたけど、ラインスは相手をみんなやっつけて優勝しました。
皇帝陛下が、優勝したごほうびに《剣》をくださるとおっしゃると、ラインスは言いました。
――ぼく、剣はいりません。そのかわり、妹の病気を治してください。
皇帝陛下は、いちばん腕のいい魔術師たちを呼んで、ティアの病気を調べて、治してくださいました。
ティアは元気になって、お兄ちゃんと一緒に、いつまでも幸せに暮らしました。
めでたし、めでたし!』
『おにいちゃん……それ、ほんと?』
熱のために潤んだ目で、ティアは兄を見つめた。
『お医者さんは、なおらないって言ったよ。ティアは、こういう体に生まれたから、一生なおらないって……』
『絶対に、治る』
妹の細い細い手を握って、ラインスは言った。
『薬では治らないような病気も、魔術でなら、きっと治る。
皇帝陛下は、帝国魔術学院っていう、すごい魔術師の人たちが集まって研究する学校を五つも持っていらっしゃるんだ。
だから、きっとその中に、ティアの病気を治せる人がいる』
『ほんと?』
『ほんとだ。兄ちゃん、がんばって練習するから、見てろって。
あと四年……いや、八年たったら、きっと――』
それがどれほど困難なことか、当時のラインスには、漠然としか分かっていなかった。
その日のうちから、ラインスは、どうやって本格的な剣術を身に付ければいいのか、真剣に考え始めた。
神殿の学校では、木剣を使った剣術の基礎を教えてくれる。
ラインスもそんな教室のひとつに通っていて、教室の中では最も筋がいいと言われていた。
だが、神殿で教えてくれるのは、あくまでも体を鍛え、根性や礼儀作法を身に付けるための「けいこごと」としての剣術だ。
本気で御前試合を目指すのならば、そんなところに留まっていては駄目だと、ラインスは思った。
御前試合に出場するのは、その多くが貴族の子弟だという。
彼らは幼い頃から家庭教師に剣術の基礎を習い、たびたび競技会を開いて腕前を競い合い、格式の高い家なら、当代の高名な剣術家を招いて直接指導を受けたりもするという。
そんな奴らと渡り合うには、もっと、みっちりと稽古をしなくては駄目だ。
我流でやるにも限界がある。
もっと優れた師匠について、教わるしかない。
だが、師匠につくということは、金を払って師匠を雇うということであり、また、稽古に使う武具や防具も自弁が当たり前だった。
クレッサ家には、そんな金はない。
帝都警備隊につとめている父、クリルの給金は、あっという間にティアの薬代に消えていく。
毎月、生活をまかなうのがやっとの額しか残らない中で、剣術の師匠に払う月謝など出せるはずもなかった。
ラインスも、ある程度大きくなると、働いて家計を助けるようになった。
伝令ギルドの下請けとして手紙の配達をしたり、港の積み下ろし場で荷運びをしたり……
なるべく持久力や筋力を鍛えることにつながるような仕事を選んだのも、剣術を学んで御前試合に出るという夢に、少しでも近付くためだった。
だが、日々の仕事はきつく、一日が終われば疲れ果てて稽古どころではないのが現実だった。
無理に稽古に時間をあてれば、翌日に疲れが抜けず、仕事でへまをやって、どやされることになるからだ。
(やはり、軍隊に入るか、警備隊に入るしかないのか……)
そうすれば、仕事の一部として、必然的に剣術の訓練が組み込まれることになる。
だが、軍隊に入ることは避けたかった。
国境の砦への勤務などが決まったら、長く家に戻れない。
そのあいだにティアの身に何かあったら、と思うと、たまらなかった。
――そして、帝都警備隊。
父クリルの職場だったが、当時のラインスにとっては、ある意味では最も遠い職場だった。
帝都警備隊の人員の水準は非常に高く、入隊者の選抜試験は、軍隊のそれとは比較にならないほど難しかった。
入隊するには、筆記試験で一定以上の成績をとらねばならず……そして、これが何よりも問題だったが、剣術、あるいは徒手格闘術のいずれかを修めていることが入隊の条件だった。
構成員の多くは、あるていど裕福な商家や職人の次男坊、三男坊たちだ。
ラインスにとっては、まさしく、負の循環だった!
貧しい者は、望む場所に向かうための最初の扉の手前で閉め出されてしまう。
金こそが、扉を開く鍵だった。
その金がないために、まともな剣術を習うことができず、それゆえに、最後の望みの綱である警備隊への入隊もかなわないのだ。
どうしようもない現実を前に、焦りだけがつのり、自暴自棄になって荒れかけた時期もあった。
そんな時だ。
《不死身》と謳われた将軍ガストン・ユーザが退役し、帝都の一角で、子どもたち相手の剣術道場を開くという噂が流れたのは。
並み居る貴族たちから『ぜひ息子の剣術指南役に』と引く手あまたであったにも関わらず、それらの誘いを全て断り、何の縁故もない市井の子どもたちに門戸を開くというのだ。
しかも驚いたことに、月謝はとらず、練習のための武具や防具も全て貸し与えるという。
ラインスは、これこそが、神の導きだと思った。
この千載一遇のチャンスに、自分の全てを懸ける覚悟で、ガストンのもとに赴いた。
高名なガストン・ユーザの剣術道場が開かれると聞いて、その日、ユーザ邸の玄関先には入門希望者が殺到していたが、長らく空家であった元富豪の邸宅の、錆びてがたつく門扉に手をかけ、にこやかにガストンが発した最初の言葉は、
『おお、これだけの人数が集まれば、わしらの家の掃除も、あっという間に終わりそうだな!』
だった。
蜘蛛の巣払い、家具の運び出し、カーテンの取り替えにタイル磨きが始まった。
奥方であるキャッサの指示のもと、庭の草花の植え替えや剪定、かまどの灰の掻き出しにあたることになった連中もいた。
なぜか掃除の合間に突然『駆け足!』というガストンの号令がかかり、屋敷の周りを三十周近くも走ったかと思うと、次には鎧戸の拭き掃除、壁紙の張り替えが待っている。
食事は三度、パンと、チーズか干し肉、野菜スープが、量だけはたっぷり。
夜は、希望する者は家に戻ってもよいが、翌日の日の出前にはユーザ邸の庭に集合しておかなくてはならなかった。
最初の五日間で、入門希望者の半数が、次の五日間で、さらに半数が姿を消した。
それから、さらに五日が過ぎた朝――
ぴかぴかになった居間にずらりと並んだ少年たちに、ガストンは言った。
『ここは、わしらの家だ。……わしは、この場所で、君らに、わしの持てる全てを教えよう』
ラインスは、自分の目の前で、運命の扉が音を立てて開くのを聞いた。
食らいつくような向上心でガストンの稽古を受け、ラインスはめきめきと実力を伸ばし、やがて、念願の帝都警備隊に入隊を果たした。
物静かな父は、報せを聞いて、ただ何度も頷いていたが、ティアはベッドの上で飛び上がるほど喜び、そのために発作が出て、しばらくは息もつけなくなってしまったほどだった。
『言っただろ、ティア、ほんとだって』
妹の背中をさすりながら、ラインスは何度も言った。
『兄ちゃんは、これからも練習をがんばる。
師匠の道場はやめるんだ……次の奴に、場所を空けてやらなきゃいけないし、警備隊に入ったら、忙しくて通う暇がなくなるから。
でも、師匠は、迷ったり困ることがあったら、いつでも相談しにきていいって言ってくれてる。
警備隊には、いろんな流派で戦う奴が集まってるんだ。そこで訓練すれば、今よりも強くなれる。
俺は、そこで誰よりも強くなって、きっと――』
妹に何度も語ってきかせた、夢の舞台。
そこに今、彼は立っている。
父の死という、あまりにも大きな代償を支払うことになった。
それでも、彼は今ここに立っていることを、後悔してはいなかった。
剣を抜いて向き合ったとき、逸る闘争心のあらわれか、それとも極度の緊張のためか、対戦相手の顔は激しく引きつり、その切っ先は細かく震えていた。
(お前は、何のために、ここに立っている?)
微動だにせず対峙しながら、ラインスは心の中で、構えた盾の向こうに見える対戦相手に問い掛けた。
ラインスの表情は冷ややかに厳しく、まるで神殿の壁の浮き彫りのように揺るぎないものになっていった。
(功名心か? 単に箔をつけたいためか? 五日ももたずに、師匠の家から消えた奴らのように?
それなら、俺が、お前に負けるはずはない。そんなこと、俺が許さない。
勝つべきは、お前じゃなく、この俺だ。
俺は、あいつのために――ティアのために、勝たなくちゃならないんだ――!)
観客たちの声も聞こえなくなり、一切の雑音が遠ざかった空間に審判の声だけが響きわたった瞬間、身体中に爆発的な力が漲った。
数合の、凄まじい打ち合い。
やがて甲高い金属音とともに跳ね飛んだ剣が地面に突き刺さり、同時に、緑の旗が高々と掲げられた。
* * *
「勝者……ラインス!」
審判の宣言と同時に、キィンと硬質の音が響いた。
皇帝が引いた、二枚のメダル――
対戦する二人の戦士の名が刻まれているそれを、試合のあいだじゅう頭上に掲げていた係官が、石畳の床に落としたのだ。
敗者の名を記したメダルだけを。
その小さな金属音は、すぐ近くの人々の耳にしか聞こえなかっただろうが、その光景は巨大な石板に映し出され、会場中の人々の目に届くようになっている。
係官は、勝者ラインスの名が刻まれたメダルを皇帝の前に差し出し、確認を求める。
ルーシャ・ウィル・リオネスが大きく頷いてみせると、彼は進み出て、皇帝の手元にある「勝者の袋」に恭しくメダルを入れた。
何気ない一連の動作だが、これらは全て、第一回の御前試合のときから繰り返されてきた作法に従ってのことだ。
ルーシャは玉座に深々と身を沈めると、華麗な装飾をほどこされた扇をゆったりと広げた。
そして、わずかに首を傾けてみせる。
視線すらも伴わない、ただそれだけの動作で、側に控えていた侍女たちのひとりが素早く近付き、皇帝の指示を仰ごうと、深く身をかがめた。
皇帝の侍女たちは皆、黒い服を身につけ、髪を一筋も残さず結い上げて布で覆い、顔には厚く白粉をほどこしていた。
自前の眉を塗り消し、同じ美しい弧を描く眉化粧をして、唇に同じ色の紅をさした彼女たちの姿は、身長や体格の差をのぞけば、皆同じ人間のように見える。
その背後に、やはりこちらも見分けのつかない護衛の男たちが控えている様子は、一種異世界的な雰囲気で、見るものを圧倒した。
折り目正しく控えた侍女に対し、やはりそちらに視線を向けぬまま、ルーシャは、扇で優雅に口元を隠して囁いた。
その声は、間近に寄ったその侍女ひとりにしか聞こえぬ程度の、ほんの微かなものだった。
――そうでなければ、帝国全土を混乱に陥れるであろう、奇妙極まりない言葉であった。
「お姉様……」
確かに、そう、彼女は言ったのだ。
「宜しいのですか。このまま、計画通りに試合を進めさせても、本当に?」
只ならぬ発言である。
リオネス帝国の法は、長子継承を定めていた。
即ち、皇帝に、存命の『姉』が存在することは有り得ないのだ。
長子が重い病などで、皇帝の責と権力とを担うことに耐えられぬと判断された場合には、その限りではないのだが――
「構いません」
返答は、すぐにあった。
玉座についた皇帝ルーシャに、そう許可を与えたのは、あろうことか、彼女の足元に深く身を屈めている侍女であった。
「けれど、お姉様。もしも、あれが、ここで正体を現すようなことがあったら」
「これまで、五百年を待ったのです。状況も整わぬのに、ここで僅かな時を惜しむほど、あれは愚かではない。今日はお披露目だけのつもりで、失敗すれば、早々に切り捨てるわ」
「大使たちは、よほど冷や汗をかくでしょうね?」
「それで良いのです。あなたは、今夜の夜会で、彼らに少し釘を刺しておいておくといいわ。
試合の流れは、計画通りに。このまま見守りましょう。
あの子が人間世界の英雄となるためには、必要なことですよ」
「そう、ですわね。そのために、ドナーソン将軍にも……」
「ええ」
侍女のお仕着せを身に着けたその女性は、顔を上げることなく、静かに言った。
「もはや、後戻りはできません。計画は動き出したのです。あとは、事の行く末を見届けるだけよ」




